#幸せの下限値#幸せとは#幸せのあり方もし、何も不自由なく何でも自由になることができたなら?何を考えますか?おそらくほとんどの人は今の現実から離れた状態が前提の内容になるのかなと思います。それはもちろん、“今が一番幸せではないから”、あるいは“今よりも幸せだと感じる状態があるから”だと思います。つまり、幸せの理想に入らない現実は、“手放したい現実”あるいは“手放してもいい現実”言い換えれば“今より上の幸せがあると思う現実”“今は幸せ度が下の方だと思う現実”ということだと思います。逆に今の現実が一部でも幸せの理想に入っているということは、“手放したくない現実”あるいは“手放さなくてもいい思う現実”言い換えれば、“これがあるから幸せだと感じれる”“幸せはこれが全て、無くなったら最期”“幸せを今以上に求める必要が特にないと思う幸せがある”ということだと思います。以前の投稿で、“王者の風格の余裕”ということを話していますが、余裕というのは、全て柔軟に対応できる核となるものが経験を通じて知っている、あるいは理解できているからこそ、そして柔軟に対応するというやり方が実践できるからこそ余裕というのは生まれる。ただ、王者の風格という強いイメージでなくとも余裕は生まれる。つまりマイナスなことに常にとらわれずに済む余裕。それは“体験すること、知ること”。何を?→“幸せの下限値”を。幸せの下限値とは、“痛みや苦しみ”、つまり“心身が崩壊に向かうこと”だと思います。今まで自分自身が積み上げてきた全てが一度にリセットされるのであれば誰しもが大きな痛みや苦しみを伴います。積み上げたものが全てリセットされるとなると今までの自分自身全てを否定したくなる人も出てくるくらいだと思います。実際に現実にそういったことが迫り起こるのであれば必ず自分自身が持っているものが引き剥がされる痛みや苦しみを伴い、見えない深い闇底に引き込まれていくほど心身が崩壊していくのを感じると思います。…でも、もしそれを事前に知る、あるいは直接体験した上で前に進むことができたとしたら、“今あるものに集中する”“幸せそのものを俯瞰(ふかん)して見る”ことができるのかなと感じています。つまり、幸せの下限値を未体験で知らないからこそ不安で怖い。のであって、分かれば余裕が生まれやすくなる。そして、例えば、今の幸せが下の方だから今は幸せなんて何もない。これがないと幸せだと言えなくなる。幸せには大きさの程度が必ずある。…といったことからは離れることができる。言いたいことは、幸せとは、例えるなら「この洋服は合わないから、嫌いだから嫌だ。」「この洋服を着させられているから今の自分はプラスではない。」「この洋服は◯◯だから今日は、今は、ここは駄目。」ではなく、「今日はこの気分だからたまたま着てみた」「偶然目の前にあったから着てみたくなって着てみた」「暑いから、寒いから、そして今日回ってきた洋服だから着てみた」そして、「この洋服はこうだからいつもより◯◯だけれど今日という一日を柔軟に対応してみる」「洋服が◯◯だからというより、今は◯◯という状態で、今の自分で立ち回ってみる」という、広い視野で全体を眺めて見た上で、日々変わるいろんな波というものも知った上で、執着なく、こだわりなく本質的な目的を基に一日一日冷静に考えながら過ごすということに、普通のイメージとは違う形で自他共に評価することのない“本質的な幸せ”(=今の自分で今という状態に置かれた上で評価することなく日々を過ごすという行為を通した生きるという幸せ)があるのかなって思っています。#本質的な目的と幸せの形#青色の空。