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練馬区北町〜成増駅👟
川越街道1日目最後の投稿です
①練馬区北町でノスタルジーを感じながら成増を目指します
②③④東部練馬駅の南にある北町観音堂を訪れました。堂内には赤塚村へ進むための道標になった1682年の建立の聖観音像が祀られています。また、観音堂の隣りに建つ馬頭観音像の頭には馬の顔がはっきりと見受けられます
⑤⑥観音堂の少し先に本陣跡緑地と呼ばれる小さな公園があります。本陣と呼ばれるからにはここに下練馬宿の本陣があったわけですが、敷地の奥には本陣と何の関わりも無い黄金の大根モニュメントがあります(笑)昨日の投稿では徳川綱吉が造らせた御殿跡を取り上げましたが、足の病に大根が効くと知った綱吉は下練馬宿の住民に大根を作らせました。本当に大根が効いたのか分かりませんがその後に綱吉の足の病は治癒したそうで、綱吉が将軍になると練馬大根の噂は全国に広まったそうです
⑦⑧地下鉄赤塚駅の出入口横にある細い脇道は旧鎌倉街道の跡とされています。街道の起点には『いざ!鎌倉』をモチーフとした小さな像が建てられており、北東に進んで蕨市辺りから中山道へ合流したものと思われます
⑨目的地に到着し喜びのポーズ🙌
#リピ散歩 #旧街道旅 #川越街道 #下練馬宿 #成増駅










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上板橋駅〜下練馬宿👟
①②上板橋駅入口交差点の先に2体の子育て地蔵尊(1778、1777年建立)が祀られています。建立当初は南にある城北中央公園内に3体が祀られていたそうですが、明治に入ると上板橋駅入口交差点に移設されいつのまにか2体が倒された状態で発見されたそうです。その後1923年に地元の有志によりこの地に移され現在は大切に祀られています。尚、説明板の〝呼ぱれ〟はグラ友さんの発見です🤣
③子育て地蔵尊から500m ほど進むと左手に1739年建立の青面金剛庚申塔が祀られています。古地図を確認するとここから下練馬宿へと入るようですが、往時は厄災が入ってこないよう村や宿場の出入口に道祖神を置いていたことから、この青面金剛庚申塔は下練馬宿の道祖神的な役割りを果たしていたとのと思われます。尚、現在でもこの交差点を境にして板橋区と練馬区に分かれています
④⑤下練馬宿には鷹狩りを行う鷹場があったそうで宿場内には〝けらや〟と呼ばれるオケラを売る店があったようです
⑥下練馬宿からは王子や戸田へ進むことができたようで川越街道から少し東へ入ると交差点中央に1815年建立の馬頭観音が祀られています。都内で道路の中央に御堂が配置されるのは珍しく、立派な御堂にも祀られていることから地元の方々に古くから親しまれているものと思われます。ちなみに勝負事や足腰の神様である馬頭観音には現在でも合格祈願や足腰が弱っている人たちの参拝があるそうですよ
⑦⑧環八の高架上まで進むと1753年建立の大山道道標が建っています。大山とは神奈川県に聳える大山のことを指します。大山は山岳信仰の対象とされ石尊権現社や阿夫利神社には江戸中期から後期にかけ多くの人々が訪れました
『従是大山道』
『ふじ山道 田なし 三里』
『府中え 五里』
⑨北町小学校の角に徳川綱吉御殿跡があります。江戸時代初期、この辺りは鷹狩りの地として知られていました。後の5代将軍徳川綱吉は将軍職に付く前に足の病に悩まされており、陰陽士によると『馬の付く地名で療養せよ』とのことで1677年に鷹狩りを兼ねて御殿を建てたそうです。1680年に4代将軍家綱が亡くなると正式な将軍に任官される綱吉ですが、練生類憐みの令を発する前は鷹狩りをしていたようですね
#リピ散歩 #旧街道旅 #川越街道 #下練馬宿 #徳川綱吉










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#川越市 #小江戸 #リピ散歩 #川越街道 #旧街道旅


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①大山ハッピーロードを歩くリピ一行。腹が減っては戦はできぬと中華料理店へ駆け込む🍜
②お腹いっぱい❗️からの〜クレープ‼️
③板橋区民には有名なんだろうな‥
④川越街道最初の宿場町である上板橋宿へ入りました
⑤⑥⑦石神井川に掛かる下頭橋の手前に下頭橋六蔵尊があります。下頭橋の由来には諸説あるようですが、その中の一つに『下頭橋の六蔵』という話があります。
⭐️江戸時代の初め、石神井川に掛かるこの橋は川越街道で唯一の木橋だったことから、洪水が起こる度に橋が流されていたそうです。そんな中、石神井川付近を寝床にしていた六蔵という年老いた乞食がおり道行く人々に頻繁に頭を下げては金を恵んでもらっていました。六蔵はその金をせっせと貯めていたそうで、乞食仲間との交流にも決して金を使うことが無かったことから『けちんぼ六さん』と呼ばれていたそうです。時が経ち六さんにも最期の時が訪れました。六さんが亡くなると彼の住んでいた小屋から壺に入った大金と『この金で石橋を掛けてほしい』という手紙が発見されました。以前、六さんは洪水で家族を失くしており、ここに石橋を掛けることで生前から世話になっている上板橋の人々に恩返しがしたいと話していたそうです。その後、六さんの噂が広まったことで多額の寄付が集まり石橋が掛けられました。人々は六さんを讃え六蔵菩薩として橋の傍らに祀ったそうです。尚、この話は『けちんぼろくさん』として日本昔ばなしに登場しており YouTubeでも観ることができます
⑧石神井川でハイポーズ🙌
⑨長命寺坂を上ります
続く‥
#リピ散歩 #旧街道旅 #川越街道 #上板橋宿 #下頭橋









にんげんっていいな

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今回から川越街道旅をスタートします。室町時代中期、古河公方足利家に対抗するため太田道灌により江戸城と川越城が築城されました。川越街道はこの2つの城を結ぶ街道として造成したのが始まりとされており、江戸時代に入ると川越城主松平信綱・輝綱親子により街道上に宿場町が置かれました。尚、川越を起点とする児玉往還(川越〜高崎)と繋ぐことで中山道の脇往還としての役割も果たしたようです。尚、今回の旅は中山道を少し歩いてから川越街道へ入りたいと思います
①板橋駅東口に近藤勇の墓所があります。新撰組局長である近藤勇は戊辰戦争の折に千葉県流山市で捕らえられ、この地で処刑されました。首は京都へ送られ胴のみがこの地に埋蔵されたそうです。明治に入ると元新撰組隊士である永倉新八により近藤勇と副長である土方歳三の碑が建てられました。尚、敷地内には永倉新八の墓もあります。いっときは袂を分かち合った彼らですが、こうして同じ敷地内で眠っていることに何か考えさせるものがあります
②板橋宿は江戸から平尾宿→仲宿→上宿に分かれており最初の平尾宿へと入ります
③首都高を潜り右手の路地へ入ると東光寺があり境内には宇喜多秀家の供養塔が祀られています。宇喜多秀家は豊臣政権五大老の一人として豊臣政権を支えましたが、関ヶ原合戦の敗北により八丈島へ島流しとなりました。秀家の正室は前田利家の娘だったため前田家の庇護下に入ったそうですが、生涯八丈島を出ることはなく1655年に亡くなったそうです。秀家亡き後は宇喜多から浮田へと名を変え島でひっそりと暮らしていましたが、維新後の1870年に本土復帰を許され前田家を頼ってこの地へ移り住んだそうです。この辺りには現在でも浮田・八丈などの地名が残ってるそうですよ
④中山道へ戻るとY字路が現れます。ここが川越街道との追分で、右方向が中山道、左方向(直進)が川越街道となります
⑤⑥川越街道に入り400m ほど進むと四ツ又交差点の手前に1734年建立の馬頭観音が祀られています。ちなみに四ツ又とは川越街道と板橋宿から雑司ヶ谷へ向かう街道が交差していたていたため四ツ又と呼ばれたそうです
⑦⑧⑨ハッピーロード大山へと入っていきます。川越屋など往時の名前が残っている店舗も見かけます。
続く
#リピ散歩 #旧街道旅 #川越街道 #新撰組 #宇喜多秀家










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グルメやミッフィー情報はあの方に任せ、いつものリピ散歩らしい画にしましょう💫
①〜⑤川越城本丸跡
1848年、松平斉典により建てられました。現存する城郭御殿は全国で8ヶ所しかなく県の文化財に指定されています。また御殿の向かいにある三芳野神社は童謡『とおりゃんせ』の舞台となった場所だそうです。
⑥中の門堀跡は往時の川越城を知る上で大変貴重なものです。
⑦リピ散歩で何度も登場する太田道灌。江戸城、川越城を築城した扇谷上杉氏の軍監です。
⑧〜⑨川越の風景
#リピ散歩 #旧街道旅 #川越街道 #児玉往還 #川越市










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誰だかわかるかな?
#リピ散歩 #旧街道旅 #川越街道



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東武東上線沿いの新河岸駅から高坂駅までを走るつもりでしたが、途中の寄り道が多くて若葉駅で夕暮れ終了とあいなりました。今回で年内の街道旅は終わりますが、来年も新たな発見や地元ならではの美味しい食べ物を探して楽しみたいと思いまーす。来年もリピ散歩をよろしく💫
#リピ散歩 #旧街道旅 #川越街道 #川越市










まりPom
ん?( ˙³˙)
神座の大盛りってこんなにデカいん?ww
レンゲや卵が小さいのではありません( ˙꒳˙ )
大盛りが大盛りなのです!www
ちなみに、好きな物は最後に食べる派ですww
#バイク #川越街道
#三芳SA #神座
#以前の味の方が好きだった


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