#雑感#哲学と哲学の間の感想 西田幾多郎の境涯を思うと、超越論的な無は語りえないなどというのは少し悲しい気がする。 わたしも亡くなった父と瞑想などしているので少し気持ちはわかる。 老子を読んでいても、例えば宇宙の前の無なども思考のうちにあったのだろうと驚かされる。 例えばなのだが、意味の場を使って亡くなった人というカテゴリーを作れば、西田幾多郎など亡くなった人も、確かに「ある」ものとして扱えるのだろう。 つまり何が言いたいかというとわたしの中では死者もまた「ある」のだ。