もう随分前の話。地元の大学祭に某女性歌手が来から一緒に行こうと上司に誘われ、断ると面倒くさいので了承した。仕事の関係でチケットを入手したものの、当日は凄い行列に少し眩暈。だが、列を尻目に関係者入口へ向かう上司は、忙しそうにしているスタッフに「お疲れー」と声をかけながら、ステージ脇までやって来て立ち見ポジションをキープした。「あの人達誰だっけ?」というスタッフたちの囁きを耳にしつつも、クールを装う。無関係者だとバレないか、内心冷や冷やモノ。やがて幕が上がり、初めて見る若く可愛らしい女の子が歌い始めた。聴いたこともない曲をいきなり聴かされても正直ピンとこない。ステージを厳しく見つめる関係者風な男を装う始末。来場者達は盛り上がってるし、上司はニヤニヤしてて嬉しそう。やれやれと思いながら時間をやり過ごす...。ようやく最後の曲になると、演奏なしのアカペラで歌うと彼女が言う。いくら大学の体育館とはいえ結構広い。呼吸をおいて、静かにのびやかな声が館内に響き始めた。しなやかで芯のある声に耳を傾けていると、何やら胸の奥が締め付けられて苦しく、ザワザワと背中から腕にかけて鳥肌が立つ。サビのところで一際のびる声が、静かで物悲しい世界を作り、いつしか僕も彼女の歌に魅了されていた。終了後、駐車場に向かう道すがら「誘ってくれてありがとうございました」と上司に礼を言うと「良かったやろう」と自慢げに笑う。「ところで、アカペラで歌った曲、とてもよかったのですが、曲名ご存じですか?」「あれがお前、『三日月』だよ」そうか、あれが『三日月』なのか。初めて生で聴いた『三日月』。耳の奥でまだサビの部分が繰り返されていた。「ところで、よくステージ横まで行きましたね?」「スーツ着て挨拶されたら、大抵は事務所とか催事の関係者だと思うやろう」不敵に笑う上司の背中を眺め、ああ、この人には敵わないなと思いながら、月のない空を仰いだ。#800字エッセイ #初めての絢香 #ふと思い出した話