リピ散歩👟 甲州街道編【2日目⑤】何か最近お疲れ気味💦夏バテかなぁ?⭐️四谷大木戸跡(新宿区内藤町87)国道に戻り400m 進むと四谷四丁目交差点が現れます。また、交差点北東側の植込み内には【四谷大木戸跡碑】があります(交差点を渡って甲州街道を進んだ左手にも四谷大木戸門跡碑がありますが、正式な位置はこちらだそうです。木戸は門の役割を果たしました)江戸時代、大木戸の西側には甲州街道最初の宿場町である【内藤新宿】がありました。元々、江戸初期における最初の宿場町は次の【高井戸宿】でしたが、日本橋〜高井戸宿間が4里(約16km )と長かったため、この地にあった信濃高遠藩・内藤家の中屋敷の一部や旗本の屋敷などを幕府に返上させて用地を確保し、新しい宿場町が生まれました(1699年)内藤家の名前を取り【内藤新宿】と名付けられたそうです。内藤新宿は江戸四宿(千住宿・板橋宿・品川宿・内藤新宿)の一つとして大いに繁栄しましたが、20年後の1718年に幕府から突然〝宿場廃止令〟が出されます。『江戸から10里以内の宿場では旅籠一軒につき飯盛女(男性宿泊者の給仕や夜の共をする女性)は2人まで』の法を破ったからだとされています。当時、徳川吉宗の『享保の改革』が行われていたことも影響したようで、現代で言うところの風営法に引っかかったようです(笑)その後、宿場内の改革や老中『田沼意次』の規制緩和政策もあり、約50年後の1772年に宿場を再開することができました。このように内藤新宿は江戸時代を通して運営された宿場ではなく、更に途中の大火災などの影響にもより、本陣や脇本陣・旅籠等の数は時代によってまちまちです。1843年統計(内藤新宿)本陣 1脇本陣 0旅籠 24軒人口 2377人余談ですが、この交差点も『君の名は』に描かれており、聖地巡礼の地として知られています。#リピ散歩 #旧街道旅 #甲州街道旅 #東京 #内藤新宿