レビ記が教える「健全な自己愛」こそ、すべての人間関係の土台である〜隣人を愛する前に、神があなたに願っている一つのこと〜こんにちは、石川尚寛です。モーセ五書をマンガに描く仕事をしながら、僕はあることに気づき続けています。それは、神が与えられた掟の一つひとつが、孤立的な命令ではなく、一本の見えない糸でつながっている、ということ。特にレビ記19章。「自分のように隣人を愛する」という18節の言葉は、実はその前後の文脈から切り離しては、本当の意味を捉えられないのです。今日、僕が深く洞察したいのは、「健全な自己愛」と「周辺の掟」の関連性から見える、神の驚くほど整合的な導きです。レビ記19章を注意深く読むと、18節の前に、実に具体的で生活に即した命令が連なっています。「あなたの神、主を畏れなさい」(14節)「心の中で兄弟を憎んではならない」(17節)そして、「復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない」(18節)ここで僕が気づいたのは、神がまず「内的な態度」を整えるように導いておられることです。心の中の憎しみや恨みに向き合う前に、「主を畏れる」ことからすべてが始まる。ヘブライ語で「畏れる」(יָרֵא)という言葉は、単なる「恐れ」ではなく、「深い尊敬と畏敬」を含みます。これが、すべての人間関係の土台なのです。そして、17節の「心の中で兄弟を憎んではならない」。原文では「לֹא־תִשְׂנָא אֶת־אָחִיךָ בִּלְבָבֶךָ」。「ビルヴァベハ」——「あなたの心の中で」という強調が印象的です。神はまず、私たちの「内側」に働きかける。外面の行動より先に、内面の状態を整えるように導かれる。これが「健全な自己愛」の第一歩だと、僕は考え始めました。神を畏れ、自分の中の憎しみと誠実に向き合うこと——それは、自分自身をないがしろにすることではなく、神の前にいる「自分」という存在を真剣に扱うことです。では、なぜこれが「健全な自己愛」につながるのでしょう。その答えは、18節の直前にあります。「彼を叱責しなければならない。そうすれば、彼の罪をあなたが負うことはない」(17節後半)ここに、神の深い知恵を感じます。隣人の過ちを放置せず、でも恨まずに、誠実に向き合う。それは、自分自身の罪や弱さとも誠実に向き合う姿勢と同じ根から生まれるのではないでしょうか。「健全な自己愛」とは、自分を甘やかすことでも、自己中心になることでもありません。むしろ、神の前に正直に自分を見つめ、欠点も含めて受け入れ、成長させていただくための土台のようなもの。そして、この土台があって初めて、「自分のように隣人を愛する」ことが可能になる。隣人の欠点を、自分のそれと同じように受け入れ、憎まずに、誠実に関わることができる。レビ記19章の後半にも、この原則は続きます。「在留異国人を愛しなさい。あなたたちもエジプトの国では異国人であった」(34節)ここで神は、自分たちの「過去の経験」——エジプトで寄留者だった苦い記憶——を他者を理解するための「共感の土台」として用いるように導かれます。これこそ、健全な自己愛の延長ではないでしょうか。自分の傷ついた経験、弱さ、過去の苦しみを、他者への共感へと昇華させる道。神は、私たちのすべての経験——良いものも悪いものも——を無駄にされない。僕がマンガを描きながら感じるのは、神の導きが決して断片的ではない、ということです。「隣人を愛せよ」という命令は、「まず神を畏れよ」「自分と誠実に向き合え」「自分の経験を他者理解に活かせ」という一連の導きの頂点に位置している。なぜレビ記の中でこの掟が一回だけか?もしかすると、この一回が、何百もの具体的な掟を貫く「背骨」だからかもしれません。すべての律法は、この一点に向かって収斂し、この一点から発散している。健全な自己愛とは、神との関係の中で自分を見つめ直すこと。それなくして、隣人への真の愛は生まれない。逆に、隣人への誠実な関わりを通して、自分自身の在り方も修正され、成長していく——この相互作用的な成長こそ、神がレビ記19章を通して描いておられる「聖なる民」への道筋ではないでしょうか。僕は今、モーセ五書を描くことで、この整合的で深い神の導きを、一コマ一コマで追体験しています。その導きは、単なる道徳律を超えて、私たちの存在の根底から変容させようとする、愛に満ちたプロセスです。あなたも、レビ記19章を一つのストーリーとして読んでみませんか。バラバラに見える命令が、実は一つの大きな導きとしてつながっていく瞬間を。その深い洞察の旅に、僕のマンガが少しでもお役に立てれば幸いです。気になった方は、ぜひAmazonで「モーセ五書 マンガ 石川尚寛」と検索してみてください。無料で読めますし、神の言葉の深みを共に探る旅が、ページをめくるごとに広がっています。#レビ記19章#健全な自己愛#神の整合的な導き