組織はリスク管理の面から、組織員をルールに基づいて行動させようとする。「人間らしさ」を説く人がいる。「人間らしく」生きたいと。そもそも「人間らしい」とは何だろうか?それは社会的動物である事と考える。「人間らしく生きたい」とは、社会的動物として「空気を読み、他者を気遣い、規律を重んじ、個性を抑えて生きたい」という事なのではないだろうか?だとして、「人間らしく生きたい」という人に社会的動物として生きさせたとして、その人はそれで望む幸せを得ることができるのだろうか?私はその答えは否だと考える。では「人間らしく生きたい」という人の本意はどこにあるのだろう?「人間らしく生きたい」というその真意は、「個性を大事にし、自分らしく欲望のまま生きたい」という事だろうと思う。では「自分らしい」とは何だろうか?意思決定権を自ら持ち、自分がやりたいと思う制限なくできる事かと思う。これまで教育では「社会性を重んじ、個性を軽んじ」られてきた。そういう教育を受けた人間は、そもそも「自分らしく」生きる事が悪いことという潜在意識が働くため、「人間らしく」生きることと、「自分らしく」生きることの間で板挟みになり、葛藤を続けた末に精神に問題をきたすのだと思う。これまで社会は、そうさせないために国民に「個性」を軽んじる社会を強いてきた。それはある意味「人間らしく」生きられるようにしているだけで、一見問題がないことのように思える。情報が容易に手に入らず、人間同士の社会的距離が遠かった、産業革命以前の時代ならそれで問題がなかっただろう。だが人間は「社会的動物」であると同時に「考える動物」でもある。キリスト教においてかつての人間の始祖は無垢で無欲で、不老不死であったアダムとイブが「禁断の果実」である「知恵の実」を手にした事で、知恵を得たいという欲望が生まれ、肌の露出を恥ずかしいという感情が生まれる。禁忌に触れたアダムとイブはエデンの楽園から、生きるには過酷な環境に中で、死する定めを負って生きなければならなくなる。これが人類の始まりとされている。「欲望」を持つ事と「楽園で生きること」の両立は不可能。であるなら、欲望に満ちた人間が現世を生きるためには、現世を楽園と思って生きるしかないのであろう。#人間らしさ #自分らしく