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マサヤス 龍之介
#総理大臣 #リベラリスト
☆『戦う石橋湛山』 半藤一利著
一昨日の本コラムでは意外な程の反響を頂いた。ある人は読みたいといってくれたし又ある人は気骨ときいて現世を憂いてくれた。読みたい人が居るならば中身についてあれこれ書くのは野暮だろう、と云うことで一昨日も少し触れた同じ石橋湛山を扱った半藤一利の方を本日は紹介しよう。文芸春秋の生え抜き編集者で、最終的に同社の専務取締役まで登りつめた半藤は『日本のいちばん長い日』の著者だが、刊行時会社の営業上の都合で(意味不明😅)大物ジャーナリスト大宅壮一の名を借りて刊行された。よって大宅は本文も読まずにはしがきだけ書いたと云う。半藤と云えばNHKラジオ深夜便などの歴史番組で我が国近現代史に詳しい解説者のイメージ、弁舌も滑らかで分かり易かった。書く文章も平易で読み易い。これは13年間務めた文芸春秋編集長時代に親交を深めた司馬遼太郎の影響が強いのではないかと思う。
この書は主に昭和8年の日本の国連脱退に対して石橋が主幹を務めていた東洋経済新報で国のそうした愚策を糾弾して止まなかったとこまでを書いている。序章のタイトルも『その男性的気概』とし、石橋の経歴を述べながらその言論が国家権力への批判がいかに激しく容赦なかったかを紹介している。太平洋戦争が始まり、当局の圧力が加わり言論が封殺されたときにも「東洋経済は戦争中にもかかわらず自由主義を捨てていない」として軍部から目の仇にされたと云う。そんな時に石橋は毫(ごう)もひるまず「新報には伝統も主義も捨て、軍部に迎合し、ただ新報の形骸だけを残したとて無意味である。そんな醜態を演ずるなら、いっそ自爆して滅んだほうがはるかに世のためになる」リベラリスト湛山の真骨頂であった。戦後第1次吉田内閣のときにGHQから公職追放を受けた石橋はその根拠となった理由が謂れなき理由であることに烈火の如く怒った。「事実無根の理由で追放されることは私の良心が許さない。」と反論し時の吉田総理にも抗議の要請をしたくらいであった。そしてその抗議文の中で…私は自由主義者ではあるが国家に対する反逆者ではない…石橋は自分の生涯をこの一行で表した。立ちはだかる壁があっても避けたり怯むことなく敢然と立ち向かい、言行一致の人であることは我々の理想の人であろう。



マサヤス 龍之介
#総理大臣 #リベラリスト
☆『石橋湛山の65日』 保坂正康著 2021年発行
著者の保坂正康はノンフィクション作家として日本の近現代史の著作が多い。延べ4,000人の関係者に取材し、徹底してテーマに肉迫し謎があればその核心に迫ろうとする。私が近現代史に興味を持った時に、一体誰を拠り所に文献を探そうかと考えた時に、この人の角川文庫刊『天皇が十九人いた』を読んでその偏りのない飽くまで公平な考え方に、大いに共感して徐々に保坂の著作を読み進めていった。多分今後のこのコラムの中でも一番紹介数が多くなること請け合いである。この人の断固、歴史を見、その事象を解き明かすスタンスは右にも左にもにもの何者にも傾かない、歴史の真実を見つめて淡々と起こった事柄を解説し、それがその後にどう影響したか、を的確に伝えてくれる。誠に感服の極みであった。よってこの星でミドルネームを考えた時に今のグラネームを思い付いた次第である。さて、本回ご紹介するのはそんな保坂の比較的近著になるが嘗て昭和31年から僅か2ヶ月余という極めて短期間の在任だった我が国の総理大臣 石橋湛山の評伝である。現総理の石破茂も所信表明演説で石橋湛山の言葉を引用したほどの人物であり、昭和31年に自由党と日本民主党の保守合同により産まれた現在の自由民主党初の総裁にして初の総理大臣という人なのである。またこの本のタイトルにもある65日とは総理大臣としての石橋の在任期間を指すのだが、何故にそんな短命内閣だったのかを説いてくれている。そしてこの本の帯に書かれている"首相の格は任期にあらず!"とは一体? であろう。保坂の文章は事実を記述し、検証し、そしてそれが後世にどのような影響をもたらして、謎が残れば推察をする、と云う様に起承転結がしっかりと組み立てられているので読後感は充実している。
石橋湛山は戦前戦後を通して気骨ある姿勢を崩さなかった。戦前は東洋経済新聞社の社長まで登りつめて反軍・反ファシズムの主張を貫いた。検閲の厳しかったあの戦中の最中でも意思表示した。戦前迄の石橋湛山の半生は保坂より10歳程年上だった半藤一利の書いた「戦う石橋湛山」に詳しい。保坂のこの書は、主に戦後の第1次吉田内閣で大蔵大臣に石橋が就任したところから始まる。
=敬称略=
つづく…

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