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吉田賢太郎

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📜 私の体験から紐解く大学の「思想的カラー」と教育の現実

1. 大学の思想的立ち位置:建前と本音

大学は、公式には右翼や左翼といった特定の思想を掲げず、学問の自由と政治的中立性を標榜しています。しかし、教員や運営団体、学生の思想、学生団体のイデオロギーによって、その大学が外部から特定の「カラー」を持つと見なされるのは、私の体験からも明らかです。

🎓 経済学の多様性と慶應・明治の対比

私が最も驚いたのは、イベントバーエデン本店で「マルクス経済学を学ぶバー」に参加した際、講師のえらいてんちょう氏が慶應大学経済学部出身でマルクスを学んだと知ったことです。単純に、私は慶應大学をブルジョワ大学と勝手に思っており、そこではブルジョワ経済学と呼ばれるミクロ経済学とマクロ経済学を学ぶべきだと誤解していました。

私の卒業した明治大学経営学科では、マルクス経済学が半期必修科目でした。面白かったのを覚えています。私の母親も明治大学出身で、彼女にこの話をすると「慶應大学にマルクスなんてあるのか?」と聞かれました。えらいてんちょう氏に確認したところ、慶應では選択科目だったそうで、私の経営学科でマルクスが必修、一般教養での選択科目がなかったという微妙な違いが、両大学の学風の違いを象徴しているようで面白いと感じました。

📜 明治大学経営学科の起源をめぐる二つの説

なんでも本当かどうかわからない話ですが、明治大学経営学科というのは、戦後に明治大学の昔の名門といわれた商学部からマルクス主義者、マルクスの関係者、マルクスの研究者、学者たちを排除して作られたという説と、逆にその追い出されたマルクス主義者たちが経営学科を作ったという説の両方を聞きました。どちらにせよ、大学の学風や人事は、激しいイデオロギー闘争の結果だということを示唆しています。

👤 学長人事にみる大学の思潮転換と学閥

私の時の学長は山田雄一氏といって、東大の心理学者でした。心理学者が明治大学の学長に居座っているというのも不思議でしたし、経営学部のトップであったのも理由がよくわからなかったです。しょせん明治大学は東大の植民地だから、東大の人がポストを占める分には当然だったのかもしれないと当時は考えていました。

では明治大学にはマルクス主義者はいなかったのかというと、私は大学院進学を考えていた時に研究室めぐりをしていて、ある教授から、「明治大学経営学科の人事部門はマル経(マルクス経済学)だからやばい」という話をうかがいました。今思うとマル経でもよかったのですが、私のゼミから他学部の大学院に進学した先輩から、教授から思想を植え付けられて、いやだと語っていた話を聞きました。

2. 思想の押し付けがもたらした弊害:授業妨害と休講

私の体験から強く言えるのは、「大学が右か左かは関係なく、思想の押し付けや洗脳が悪い」ということです。

🚫 学生運動の負の遺産:休講の連発

このほかにも大学の持っているイデオロギーには思い当たることが多く、明治大学で学生会が何か抗議活動やイベント、場合によっては授業を妨害するような行動をしていると、その日は丸一日休校になったのです。補講も一切ない。二時間以上かけて熊谷市から来てるのに、こういうことが続いてずっと嫌でした。多くの当時の明治大学の学生はこれのせいで一般的に左翼に良いイメージを持ってないのです。ユーチューバーのえらいてんちょう氏にもこのことは伝えたのですが、彼はよく理解しなかったようでした。

📢 「右」の大学での相似た現象

ある時、学生会の抗議活動で講義が中止になり、なんとなく関西の友人にe-mailをしてみると、彼の大学では右翼の街宣車が来ていると言っていました。同じ様なことが、いわば右と呼ばれる大学でも起きてるんだなと、とても実感しました。彼も同じく、自分の大学が右であると認識してるようでした。このことから、特定のイデオロギーが強くなると、学習環境が乱されるという現象は、左右を問わず共通しているのだと理解しました。

3. 建学の精神とイデオロギー:宗教系大学の特異性

国士館大学とか、國學院大學とか、学習院大学は、いわば神道寄りとか右寄りとか、勝手なイメージを持たれてしまっています。

🕌 右寄り大学の「カラー」

右寄りの大学に通っていた友人の学生は、教授が講義中に太平洋戦争のことを一貫して大東亜戦争と口にしていたのに驚いたという話も聞きました。単純にその大学を右か左か一般化できないが、その大学のカラーがあるのは確かだと思います。

🙏 キリスト教系大学の規律と反動

ちなみに私の父親は上智大学、伯父は立教大学に通っていました。この二つの大学をキリスト教系の大学と呼んでもレッテル張りにはならないでしょう。みんなが認めていることだからです。父親や母親から聞いた話だと、キリスト教系の大学は学生運動が激しかった時に、一貫してそれらの活動に対して反対する行動をとったというのです。だから講義が中止になったり、学内が壊されたり、学生たちが反動的な活動に走ったりが少なかったそうでした。そういうのを最初から知っていたら、イデオロギー色の少ない、あえてキリスト教系の大学に進学したものですが、時はすでに遅しです。

⛪ 神父の説教がもたらした影響

ただ、それがいいかというと、父親が在学当時上智大学では、頻繁に神父による説教があったそうでした。父親は理工学部だったのですが、「そういうことがあるんだ」と思ったそうです。父は最初は神父の説教を真面目に聞いていましたが、だんだん彼のいうことが信じられなくなり、キリスト教から距離を置くことになりました。そのことが私が無信仰になったのにも影響しています。

🤝 キリスト教と左翼活動の接点:キリスト教社会主義

30代になってから上智大学に反貧困ネットワークの会合に行ったことがあります。そこの関係者に、上智大学の保守的なイメージと、社会活動、左翼活動は合わないのではないかと聞きましたが、彼女から、キリスト教には伝統的にキリスト教社会主義という思想があると教わりました。

イエスをローマ帝国の圧政に抗した反逆者、革命家としてとらえ、社会変革や革命はイエスやキリスト教徒が中心になり行うべきという考え方だそうです。私はこの考え方や思想は全く知らず、さすが活動家の人たちは頭が良いなと思ってしまいました。

4. どんな大学を選ぶべきか:自由な探求の場を求めて

これまでの私の体験と考察を踏まえ、今の学生たちが大学を選ぶ際に重視すべきポイントを以下にまとめます。

1. 宗教的なカラーがはっきりしている大学を選ぶか?

佛教大学や国際基督教大学など、学名に宗教名が入った大学を選べば、少なくとも「入ってから私は知らなかった」「宗教を強制されるとは思わなかった」と思うことはないのではないでしょうか。また、一般的にキリスト教や仏教など、宗教がバックグラウンドにある大学は、私の経験したような左翼的、反動的な活動とは距離を置いている(らしい)ので、学生生活が邪魔されることはないのであろうかという期待も持てます。

2. あえて左と呼ばれる大学に入るか?

早稲田大学や明治大学、法政大学などは一般的に左の大学、左派の大学といわれています。これらの大学ではマルクス経済学の講義がおそらくは行われているでしょうし、大衆的な大学と知られています。学費も他の大学と比べて少し安いらしいという魅力もあります。

3. 右と呼ばれてる大学に入るか?

私の代は小林よしのり氏の影響が強く、自らを保守であると自称してる方が多かった時代です。そういう方にとって国士館大学、國學院大學、学習院大学などに入って、みずからの思想にあった教育を受けるのもありではないでしょうか。ここで注意しておきたいのが、神道がそのまま右翼というわけでもないということなのです。

結論:思想の押し付けがない自由な環境を

結局のところ、大学選びの最も重要な基準は、「特定のイデオロギー(右・左・宗教)の押し付けや洗脳がないこと」であり、「多様な学問と思想が自由に共存し、批判的な議論が許される環境」が保障されているかです。大学のカラーや伝統を理解しつつも、自分の学習権と自由な思考が守られる場所こそが、現代の学生が選ぶべき大学だと、私の苦い経験からも痛感しています。

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マルクス経済学を学ぶバー、参加してきました!📚
難しそうなテーマだけど、@eraitenchoさんの解説とマルクス経済学の基礎を楽しく学べた一夜でした✨
企画してくださった@eraitenchoさん、ありがとうございました!@Eventbar_Eden
#マルクス経済学 #イベントバー #エデン本店 #勉強会
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🎓 明大経営学科卒の私がたどり着いた問い:現代人にとって経済学と経営学とは何か?

マルクス経済学のバーで、学生時代の記憶が鮮やかに蘇りました。明治大学経営学部経営学科を卒業した私にとって、経済学と経営学は長年の未解決の問いです。このブログでは、私の経験から、現代社会におけるこれらの学問の意義について考察します。

🍻 経済学の原点回帰と学生時代の専門科目

最近、イベントバーエデンのマルクス経済学を学ぶバーに行ってきたことが、すべてを思い出させました。そこに行くと、そういえば私も元経済系の学生で、経営学科卒業の人間だったと思いだしたのです(明治大学経営学部経営学科)。

私は体調を悪くして公務員試験を志し、地方公務員志望だったので専門科目は無く、確か政治経済を一般教養として衛星予備校で学んだのですが、そこではおおむねマクロ経済学と、はやりのマネタリストの考え方を少し学ぶ事になりました。貨幣の供給量で市場を操作するという考え方は大学では詳しく学ばず、とても新鮮だったのを覚えています。大学時代のマクロ経済学は、公共投資と消費を喚起して経済をコントロールする手法だったと思います。

が、良く思えば貨幣を市場に供給するなどと言う事は、経済産業省や財務省の官僚、日本銀行の社員くらいしか関係は無く、地方公務員が学んでも無駄な事だったと思います。

私の出た大学の経営学科は経営学科とは名ばかりで、必修科目はマルクス経済学、ミクロ経済学、マクロ経済学と、経済学よりの講義ばかりでした。

🏢 経営学の象徴「コーポレートガバナンス」の記憶

経営学の講義が一つあったのですが、とても年老いた老人で、まず声が一番前の席でもほとんど聞こえない、学生が授業中に騒いでいたのもありますが、そんな状況下で、ときおり彼が



「コーポレートガバナンス、コーポレートガバナンス!」

と叫んでいたのだけは覚えています。今でもコーポレートガバナンスの意味はよくわからないのです。

そして、経営学科でたくさん経済学を学んだからと言って、経済学がわかったわけではないのです。



💡 コーポレートガバナンス(企業統治)とは: 企業が株主をはじめとする利害関係者のために、公正・透明で迅速な意思決定を行い、企業の健全性、効率性、持続的な成長を確保するための仕組み全般を指します。

📊 現代の経済学とは:目的は出ているが、本質は?

経済学は経世済民(けいせいさいみん)の思想だとは言うけれど、当然その意味は今でも分からないし、経済学自体が何なのかつかめていません。

ミクロ経済学が企業経営に関するものであり、マクロ経済学が政府の財政であると言う説明も言われてみればわかりますが、ミクロ経済学とマクロ経済学はご存じのように、高等数学を使う、偏微分やラグランジュ係数を使うのです。当然数学を無視して入学してきた学生には理解は困難だし、試験問題も解けません。私は数式を暗記して、それを解答用紙に書いて単位を取ったのを覚えています。

では、現代人にとって経済学とはいったいなんなのでしょうか、ミクロ経済学とマクロ経済学にその存在意義を質問しても、ミクロ経済学は企業経営をよくすること、マクロ経済学は国家財政をコントロールして政府や国民に富をもたらす事と、ほぼ目的が出ているのです。マクロ経済学で議論されているのは貨幣供給を用いたり、公共事業を使っていかに政府財政をうまくするかであり、ようはやり方の問題で、その目的に対する答えは出ていると言えます。

🍎 マルクスとアダム・スミスの「性善説」 vs 「性悪説」

経済学が好きな人たちになぜマルクス経済学が魅了されるかというと、マルクスが問うた労働について、資本について、貨幣、労働についてなど、物事を厳密に定義付けて、あるいはその定義のあり方を議論したり、その問題解決を語るスタンスが、学者や近代の学問に適合していたからだと思います。マルクス経済学は科学であるとするゆえんです。

それに、私は『国富論』も『道徳感情論』も読んだことは無いですが、アダム・スミスの考え方、神の見えざる手を完全に、単純に信じている人も少ないだろうし、それをましてや国家財政に応用したら、政教分離しろとか言われそうです。

私のゼミの教授は哲学の先生でしたが、アダム・スミスの『道徳感情論』に深く影響を受けたと言い、人と人は共通性とか共感とかに深くその人間関係が影響されるものであり、それを市場経済に適用すると、経営者も、消費者も、労働者も、お互い最適なところで理解しあえるのだと言う結論を導き出していました。

マルクス経済学者にとってみれば、そんなのはあまっちょろいし、神の見えざる手について明確に証明を求められます。近代に入ってから、労働者を搾取したり、公害を引き起こしたり、企業の悪の部分をそれでは説明できないし、それを教授に伝えると、



「それは彼らがアダム・スミスを正しく理解していないからだ。」

と反論されました。

アダム・スミスの哲学と経済学は、当時「強者の論理」として批判されていたのだ、ということも学びました。しかし、それを言ったら日本の経営者全てがアダム・スミスの本を読まねばではないかとか、私は当時たくさんの反論を教授に対して用意していたのですが、ついにそれは行いませんでした。

私の恩師の哲学教授は、つまるところ人間の善性というのを徹底して信じていて、仏教哲学では道元の仏性とか、カントの道徳法則、ロールズの正義論とか、彼はいかに人間が良い存在であるかと語るのが好きでした。

さて、話は戻るが、そうしたアダム・スミスら古典派経済学の批判からマクロ経済学、ミクロ経済学、マルクス経済学が出てきたのは間違いないと言えます。ある意味では彼らは性悪説を信じているのであり、人間と、人間が作り出す市場にはある意味ではコントロールが必要と考えるのです。

⚖️ 経営学とミクロ経済学の違い

たとえばミクロ経済学は損益分岐点というのがあり、それを下回ったら事業を縮小したり、撤退したり、あるいは別の投資をして売り上げを増やさねばならないと教えます。普通の経営者だったら当然の事ですが、教科書や事業計画書通りに企業の売上は常に一定だとか、信じ込むことは無いのですが、人によってはそれが不変であるとか、損益分岐点を下回ってもある程度は事業を続けるべきだと考える人もいるのかもしれません。

企業というのはチーム経営でない限り、経営者の判断によって運営がなされます、だからその経営というのもやり方は千差万別です。

ミクロ経済学が企業経営に関するものだとすると、では経営学とどう違うのか、経営学とはそもそも何かという問いが出てきます。私は経営学科に四年いてもその問いは解けませんでした。私が三年次経営文化コースという、一番単位が取りやすくて楽な授業を選択したからでもありますが、他の授業を選択した人たちも、そこで語られるのは経営学ではなく、金融論や財政学、会社法であったり、経営に関係はするが、経営学とは直接関係のない物なのです。

今思えば当たり前で、本物の経営者は経営学科には一人もいませんでした。多くは大学、アカデミズムから出たことがない人達が教授や講師で、民間企業勤務経験がある人はそれだけましな方でした。経営者ならばわざわざ大学の先生になる必要はないのです。

💡 結論:私の中での暫定的な定義

終わりになりますが、私の今の所の経済学とは、人類を幸福に導く方法、それも貨幣とか商品とか、自然界に存在する物質で行うものだと思っています。

経営学に関しては、かなり前から非営利事業体の経営とか、政府機関の一部経営とかも広く経営学の分野とされてきて、いまいち定義付けが難しいのですが、組織と言う物を数字や財、所有物、いわば資本を用いて利益を出し、運営していくものと言えましょうか。

私の大学は反テイラー経営学の学者が多く、企業は利潤を追求するもので、企業の継続性のためにそれは必要という考え方に反する思想を持っている方が多くいました。確かに今は企業を成長させて、それを売却してしまう選択肢もあるため、必ずしも継続性の為とは言えなくなっていますが、広く組織を運営するための処方箋とでも今の所は定義付けてもよさそうです。

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