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山えみ
私がやっているのは
存在回帰 です。
存在回帰とは
『私』という意識から離れ
私をみているというその位置
ただある という意識領域
そこへ戻る
そこへ帰る
それは内側の奥にある
決して外側ではない
思考ではない
宇宙でもない
存在回帰が日常になりつつある今
もちろん現実が動かないわけがない
かけがえのない日々を
もっと沢山の人が気づいて
世界の平和を共感するしたい

山えみ
判断や選択に迷いがなくなることが
私の望みだった。
糸を吐くように細く長く呼吸をする
vol.47で、呼吸のリズムを変えてすぐ
植原絋治先生に会うことができた。
植原先生はとてもお優しく、まさにブッダの
ようでした。
体験したら、すべての方向が変わる
迷わず体験してよかった
もう夢を想像する必要もない
努力もいらない
いるのは呼吸を変えることです

山えみ
人から
悪く言われたり
嫌われたりしても
私はここに存在してしまうんだ。
どんなに嫌な目に遭っても
私はここに生きてしまうんだ。
息をしてしまうんだよ。
その場所なら
もう
何かになろうと頑張ったりしない
私は嫌われたままで
私は価値のないままで
私は皆んなから見えないままで
そのままの私でいいと
私はこのままで存在すると
私が自分を感じて
確定することが
存在確定
私が私を存在確定してあげるだけ
あなたがあなたを存在確定してあげて
そこから
景色は変わる

山えみ
今日から真理芝居108が始まる
台本を読むだけで震えが止まらない
さっちゃんの意識場が常にココと言うのだから、
私もいつかはそこに留まって現実を生きていきたい。
ルンルの植原先生は
『死ぬときにはいっさいを掴まず死ぬ。皆さんもそれを目指したらいい』とおっしゃっていた
すべて解き放つ それで充分です
願望実現は空を見上げて願っていた
見上げて 手を広げ 天を仰ぎ願った
今は違う
深く深く下へ下へ
呼吸は深く細く長く
内側を感じ
骨を感じ
意図して
神問する
『それは恐怖からの願いではないか?
それは誰にも承認されなくても、やりたいことなの?』
NAC
罪も徳も実在ではない
どちらも在るがままではない
それらは活動(つまり幻想)である
そして不自然(つまり苦しみ)な状態である
活動という幻想を信じている者(実在しない行為者、個)だけが
その行為(カルマ)の結果という想像の天国状態や地獄状態をさまよう
空想とは実在ではない不自然な状態である
好奇でありつまるところ苦しみである
よい好奇もわるい好奇もない
その正体はどちらも
在るがままではなく奇妙を信じること(闇)なのであるから
つまりは
闇の状態ということである
実在は善にも悪にも汚されない
活動(そして善や悪という虚偽のレベル作りもふくめ)
は実在せず
実在しない行為者、個によるまったくの幻想なのである
ナチュラルスピリットは在るがまま
であり、
その源により個が空想された
その個に主体化催眠をかけたとき
実在していない主体という行為者を信じること
がはじまる
彼は意識をもち
様々な好奇心(よい好奇心わるい好奇心という区別さえつくり、さばきさえする)
のシナリオを計画し
魂に分裂し
それらを上演するのだ
これらはすべて不自然(苦しみ)の行為者という幻想の世界なのである
ナチュラルスピリットによる好奇から
の空想(個)は
実在(ナチュラルスピリット)をこえることはできなかった
その不自然なだけの空想(個)と催眠(主体化)を終焉させることだろう
それは神による試み(探求)の終焉である
#ノンデュアリティ
#非二元
#ナチュラルノンデュアリティ
#ピュアノンデュアリティ
#スピリチュアル

山えみ
11/11豊洲PITは本当に、聖なる夜だった
まさか、こんなに意識の事で深くなれるなんて
本当にさっちゃんは凄いと思う。
あの夜私が泣いたのは
自分が消えてしまう怖さと
今までの人間関係が終息する寂しさだった
比較、嫉妬、競争が消えてしまう
そうゆうのが
辛かったはずなのに
あぁ、もう本当に終わっちゃうんだって
寂しくなった
表と裏はひっくり返り
時間は私そのものとなり
存在は静寂
孤立は世界
用意されてる流れ
存在はあるだけで生きられる
NAC
すべてひとつで平等(ナチュラルスピリット)
そして試みに
空想された「個」
「私」として主体化解離催眠がおきると
それを維持するために(とけないように)
「私」は「他を設定する」
これを相対依存性(仏教では相依性という)
これをイエスの奇跡講座 ACIMの関連本の説明では
空想された個(分離ていう発想)
のあとの
最初の分裂(幻想の意識の発生)
といい、
この最初の分裂
の
象徴が、
この世界(すべての分裂)
だと説明しています
仏教でも、
自我は実在せず、
相依性(関係性)
は空(くう)であるといいます
私は意識をもち、
魂と計画をもち
身体と外部世界
として輪廻する
これも空(幻想)なのです
私はあの世(極楽浄土)へ
私は悟りへ
という目的として、何らかの努力をします
私は信じています
これも空(相依性)なのです
しかし
幻想ではない
真の実在は 無条件ひとつ のままであり
在るがままのいまのとおりです
そして
実在の量は
空想エネルギーをふくめたものですから
いまこのとおり
のことは
すべて癒されるオートマチックな空想ということになります^_^
#ノンデュアリティ
#非二元
#ナチュラルノンデュアリティ
#ピュアノンデュアリティ
#スピリチュアル

山えみ
そういうことかぁって
朝風呂入ってたら気づいちゃったよ
あなたと私が分かれているのは
ひとつだと認識できないから
分かれないとあなたの素敵さを
尊べないから
私の世界で
あなたはどれだけ素敵かを
伝えられるのは
あなたから分離している私だけなんだ
ということは
私から分離しているもの
私の思考、行動、肉体、物質全て
私から分かれていると気づけたものは
私が愛することができる
尊べるもの
命を宿せる
エネルギーを
光を
熱を
波を起こす
存在しないものを
存在させることができている

山えみ
私は今日、誠実さと静けさを中心に立つ。
私は誰かに合わせて揺れるのではなく、
私の深い感性をそのまま世界に置く。
私は、他者の粗さや揺れに飲み込まれない。
それらは現象であり、私の価値と関係がない。
私は、責任感を“背負うため”ではなく、
場を整えるために使う。
私は必要な部分だけを静かに整え、過剰には抱えない。
私は、私の静けさを大切にする。
この静けさこそが私の強さであり、
場を落ち着かせる力そのもの。
私は、深い感性で世界を見る。
その感性は弱さではなく、
誰も気づかない乱れを整えられる才能である。
私は、共鳴力を“支配されるため”ではなく、
必要なものとだけ響き合うために使う。
合わないものからは距離を置いて良い。
私は、私の高さで生きる。
期待される役割ではなく、
存在としての私から始める。
私は、今日も自分の中心から動く。
揺れず、急がず、縮まず。
私はただ、私のままで十分である。

山えみ
『何にもないじゃん』には続きがあって
もっともっと手放すことが
生きる意味になる
それは
成長欲ではない
とにかく自分を信頼して
全てを放り投げて
ハマる場に身体感覚、精神
丸ごとカチッと合わせる
うまくいかないわけがない
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NAC
本質 ナチュラル、すでにただ在る、いまここ
幻想の性質 マインド、不自然、苦しみであり好奇心
本質 無条件、無努力
にもどるだけ
私はいないので
内観も外もない
何もする必要がないのが実在
だから癒しとは
何もする必要がないにもどること
表れ(私、内観、外)をいまここにもどすことである
在り方は必要ない すでにただ在る
意識状態は必要ない すでにただ在る意識
ナチュラルな意識(存在意識、今 無努力)によるいやし(同義語 解放、統一、統合)
プロセス一切なし(主体なし)
変わらない実在(はじめからある今)
努力なし
無波動
無共鳴
学びなし(学びはすべてニセモノ 不必要)、表れを無効化する
存在意識へいやす
唯一の現実すでにただ在る(現実創造はニセモノ)
内観したい
は
自我がいってるだけ
幻の自我があるとき
内側(私)や
私より内側
や
外側
という幻があらわれる
そして私たちの愛
という幻も表れる
自我とは、不自然な空想であり、
苦しみであり好奇心である(陰陽 ほんらい1つの自我である)
だからたんなる陰陽の統合は、自我、のことでしかない
陰陽、陰陽の統合(自我自体)
これらを無効化するのが
ノーマインドであるナチュラルノンデュアリティのいやしである
瞑想は必要なく
迷想がナチュラルにより癒されるだけである
#ノンデュアリティ
#非二元
#スピリチュアル
#ナチュラルノンデュアリティ
#ピュアノンデュアリティ
NAC
ナチュラル(あるがまま)によるいやし
存在観(存在意識 真の気づき 智識)
による
真の観照(いやし)
は
誤った観(変容した気づき、主客、思考活動エネルギー)
を確かに誤っていると真の識別(ヴィヴェーカ)をし
そしてそれらをいやす
これがナチュラル(あるがまま 自然)による解放である
それは真の統一でもあり、二元状態、感官、思考の統御(統一)
であり
ナチュラルノンデュアリティによるいやしのヨーガである
#スピリチュアル
#非二元
#ノンデュアリティ
NAC
から煩悩による
空性12因縁についての補足です(仮説)
無明
行
識
のあとの
名色について
名は精神(心)
色は物質性のことである
色取薀とは、4要素により構成された肉体
のことである
構成される4要素とはつまり地水火風の要素のことである
構成された色取薀(肉体)
は内界とよぶことになります
4大種(4要素からの)所造色としての肉体は
業生身です
つまり心の対象は4要素(環境)ではなく
肉体を通じての接触(触)となっていきます
まだ名色の段階では
心は、界という対象について
まだジャッジをしておらず、ただ単純に対象としてみています
そしてすでに述べたように業生身がある次の縁起の
六処の段階では
内界(肉体)と外界の関係により、
例えば
耳と音から
耳識がおきます(そして心に伝わると 触)
すると
感受(領受心)
想(細かな考察)
尋(大まかな考察)がおきます
この段階ではもうすでに自動プログラム(カルマ)により
好き嫌いも自動的におきています
しかし
念により対象をとらえておいて(止)
ヴィパッサナー(観)により滅をみているならば
尋の次の
速行心(7回くりかえされる心の波 妄執)
は
如実に慧によってみられるため
智の速行心へ変化します
つまり
色
受(領受心)
想(推度心 細かな考察 大まかな考察である尋)
行(速行心 妄執)
識(有分心 輪廻心)
は無常、苦、そして非実在であるとします
それゆえに
次の縁起である
渇愛
が断たれます
これにより色界よりも下位である
欲界への執着(取)
がなくなります
つまり次の縁起である
取(欲界への輪廻転生)
が断たれるのです
このため
4つの欲の取著はなくなります
すなわち
欲取
見取(常見による色を堅固、永遠と誤ってみる有愛、反対の失う虚無観である非有愛である断見という誤った見解がなくなります
諸行はは空想、空性のエネルギーとして癒され帰還していきます)
戒禁取(まちがった行動の規範)
我語
がなくなります
そもそも
渇愛、以前の縁起の段階である
色受想行識
の段階がすでに無常であるために
私は(慢)
私のもの(愛)
私には我がある(真我という対象概念 常見)
私には我が無い(断見 虚無観)
は
如実に慧により非実在、空性としてみられて
捨(平静)で在るからです
欲界をはなれると
色界禅定である
初禅(欲が消滅、不善の法をはなれます)
第2禅(細かな考察、大まかな考察が消滅 心の統一、喜楽)
第3禅(喜びが消滅 平静と楽のみ)
第4禅(業生身から発生する出入息が消滅 楽も苦もない)
以下は無色界(業生身という色がない段階)
空無辺処(色想が消滅)
識無辺処(空無辺処の消滅)
無所有処(識無辺処の消滅 主体のみ)
非想非非想処(無所有処の消滅 主体は非実在性)
想受滅(想と受が消滅 いかなる空想念もない)
中継車経による経の説話の例えより
多くの車(戒律などの最初の段階から)
を乗り継ぎ(階梯)
想受滅である阿羅漢(仏)
つまりニルヴァーナ(癒しによる統一のあとの 解放 真如)に帰還するのである
素人による仏典感想まとめの補足です
(読書途中にとりあえず書いてみました)
#スピリチュアル
#仏教
#12因縁
#ノンデュアリティ
#非二元
NAC
#仏教
#スピリチュアル
#ノンデュアリティ
#非二元

NAC
在るがまま
のなかに
幻として私は生まれた
基盤(源)は私以前に存在する
私は無条件の存在からきて
無条件によって支えられてきただけ
夢の存在として生かされていた
幻の私が夢をみているあいだ
私は基盤すら対象としてみていた
私は神を観念としてみていた
今
観念は消え失せ
その存在は
幻の私の背後に居る
これが
存在であり
幻の私を包摂する
神しかないのであるから
幻の私はいったいほかのどこにいけるというのか
神から逃れられる場所はない
私は
神からきた
そして今も神のなかにおり
無条件に還る
#ノンデュアリティ
#非二元
#スピリチュアル

山えみ
毎月一回通っている整体院がある
最初はガタガタだったらしいが、
全身を整えていっているのがわかって
嬉しい
今日は私のC1とT5はどこか教えてもらった
先生はお昼も食べず、朝早くから患者さんを受け入れて夜遅くまで整体をしている
まるで仙人みたいな人だから
『なんでそんなこと知ってるの?』って驚きながらも嬉しそうに沢山解説してくださった。
C1は頭蓋骨を支える最初の背骨だから知りたかった。でも直接は押せない奥にあるんだって。
私は髄液の流れるこの辺りはとても大切に思っているから、いつも整えてもらって軽くしている。
T5はポッシブルでもやってるように
思考が前に出ていって畏怖が出たのに気づいたら
すぐに戻れるように
ちゃんとした場所を知りたかったから
T5で世界を見て唯一実在する真我にいる
思考を鎮めて
私は今この瞬間の舵を取る
NAC
迷いとは
疑うものそして疑うもの
があることである
彼は
とどのつまり確固としたものをしらない者であるから
それが彼という正体である
彼は確固たる者ではない
その彼は自分のことを棚に上げて
何かを疑うのであるが
(たとえば自らが考案した
物とか悟りとはいったい何なのだろうかと)
答えをもたない疑う者が
自らのことを棚に上げて
作り上げた疑わしきものをみる
好奇心と憎しみを込めて
しかし
確固としたものがない疑う者自体が
疑わしく実在しない
疑う者が実在しないので
疑われるもの(問われるもの)も実在しない
何も愛され憎まれるものは実在しなかった
自らすらも
というのも
特別はなく
主(あるじ)はなく
神もいない
特別感である
主客の問題はない
私と神もない
物や神へと
客体に没するのでもなく
また
主客同一でもない(幻は合一ところで幻)
自然な今しか実在しない
#ノンデュアリティ
#非二元
#スピリチュアル
#ナチュラルノンデュアリティ
#ピュアノンデュアリティ
NAC
二つの今はない
自分も何か(悟り)もなく
来ることも、去ることもない
悟りが来ることも、自分が行く処もない
自力も他力も幻のこと
ただ在るがまま
公案
万法(諸法)は一に帰するが、
一はいずこに帰するのだ
無明、
煩悩などすべては
明らかな真如(在るがまま)から流出していたにすぎない
これが諸法実相である
趙州禅師が頭の上に草履(ぞうり)をのせてみせたように
在るがままこそが(真如)である
#スピリチュアル
#非二元
#ノンデュアリティ
#ナチュラルノンデュアリティ
#ピュアノンデュアリティ

NAC
主体は意識(仮のいまここ)
にとどまっている
意識(仮止)により
五感、思考、感情という変化を幻だと識別し(観)
主体は意識が真実であるとする
しかし
主体や意識は実在せず
存在しかない
これがナチュラルノンデュアリティの癒しである
#ノンデュアリティ
#非二元
#スピリチュアル
NAC
と
思考(私)のちがい
存在が平和である
それが
真実か幻かのちがいである
存在から
活動があらわれることはできるが
活動から
存在があらわれることはない
存在が平和であり満足だ
#スピリチュアル
#非二元
#ノンデュアリティ
#ナチュラルノンデュアリティ
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