joker2(フォリ・ア・ドゥ)を観た。オマエの怒りはオマエだけのものだ。オマエらが怒りの代弁者として祭り上げたアーサーは、自身と向き合い、罪を認め、jokerを辞めたことを許せなかったバカによって殺された。己の不遇を何かの仕業だとし、自身と向き合うこともしない愚か者共よ、オマエらこそが真のjokerだ。ガッカリしたか?ざまあみやがれ!と、監督が叫んでいるかのような印象だった。ここまで書いた所でトッド・フィリップス監督へのインタビュー記事を検索してみる。「彼はアーサーなのか、それともジョーカーなのか?もっとも彼らしいのはどちらか、それを受け入れることができるのか?これらを探求した映画です」これ、劇中の登場人物のみならず、観客にも問いてる形だ。長い年月の間で培われてきたjokerへのイメージ。それに媚びないjokerを描いた時、観客はどんな反応を示すのだろう?ラストシーンで描いた通り酷評されることも想定の上でのことか・・パンクだぜw"フォリ・ア・ドゥ"とは"複数で妄想を共有しあう状態"を意味するらしい。"joker"というモチーフを利用して只の1人の男の人生と葛藤を描きながら、「イメージだけで他者を判断し押しつけ安心してんじゃねえよ、自身にも他者にも向き合ってちゃんと見やがれボケが」と世間に訴えたかったのかもの、ドット監督とホアキンわ。劇中でアーサーがjokerでいることを避け、等身大の自身で恋へ挑んだように、監督も観客が期待するjokerを避け、自身の映画を観せにかかったのか。好きだ。その、傷つけてしまう、傷つけられてしまう覚悟を持った距離感に、誠実さに、人間味ある暖かさと寂しさを感じ、許し信じることが出来るやね。次回作を期待してるぜ。あ、ただひとつだけ。今後メタ表現でミュージカル調は使わないでくれ 笑#joker2#ドット・フィリップス#ホアキン・フェニックス