@あお🫧 さん×@モ! さんの合作品『アカップオブティ』の考察僕のコメントを発端に、少し哲学チックな対話になったので投稿してみました♪皆さんはどう考えますか?⸻(yjk)事実とは、「存在することそのもの」である。それは観測者の有無にかかわらず成立する、現実の構造。理性はその輪郭をなぞるようにして、それを「認識」しようとする。一方で真実とは、「その事実をどう感じ、どう意味づけるか」という感受と思考のプロセスに宿る。観測者が介在してはじめて、それは世界の中に息づき、感性がその世界を「創造」していく。そして、構造(理性)と感性が交差するところに、共鳴が生まれる。その響きの重なりこそが、世界を豊かにし、ときにヒビを入れる。その営みが、私たちに「生」を実感させる。こんな感じ?⸻(モ!)事実は存在する事。理性は存在を認識する事。真実は各々の解釈。解釈でそれぞれ世界を構築。までは何とか分かりましたが、理性と感性が共鳴する——この「共鳴」が難しいなあ。⸻(yjk)交差して共鳴──というのは、詩的な比喩です。(カッコつけました)言い換えるなら、事実(理性面)とは、人の認識を介さずともそこにある「動かない土台」。いわば、塗り絵の“下絵”のようなものです。そこに各々の真実(感性面)を通した解釈で、自由に色を重ねていく。その重なりを俯瞰して見たとき、そこには彩り豊かな世界が広がっているかもしれないし、混沌としたぐちゃぐちゃな世界になっているかもしれません。なかには、線に沿わず(意図的or短絡的)に塗る人もいるでしょう。そんな下絵(理性)と色彩(感性)が重なる(交差する)ことによって、私達は同じ世界にいるんだ(共鳴)と感じることができる。みたいな感じでどうでしょうか?⸻(あお)人間にとっての真実は、感性や意味づけを通して形づくられるけど、ダニには、理性も感性もない。(たぶん……)だから「真実」というより、「反応としてのリアリティ」があるだけ。同じ熱い紅茶(事実)も、見るもの(それぞれの存在)によって、まったく違う宇宙になる。みたいな?⸻(yjk)ChatGPT(人工知能)に聞いたら、ダニさんは「生命を維持するための生きたプログラム」であり、自然界における分解者・捕食者・被食者として構造の一部に過ぎないらしい。つまり、自我が存在しないから、各々の世界(真実)を創造する力がない。故に、視点を持たないために「見るもの」になり得ないから、その宇宙を感じることすらできない。生物ではあるけど、構造的には砂や石ころと変わらないのかも。しかし、人は自我があるが故に構造的整合性を良くも悪くも歪ませる。(矛盾が生まれる)って感じかな。⸻(モ!)ダニはまず木に登り、高いところに行く。生物が発する分子を感じると降りる。目が見えないから、ダニはどこに降りたかもわからない。しかしそこで血を吸う。それが生物だったなら血が吸えて、そのエネルギーで産卵する。もし生物じゃなかったなら、また木に登る。生物が来るまで、ダニはずっと待つ。18年待ったダニもいるらしい。これがダニの世界。ダニには創造性がないと言うのは、その通り。でも、ダニにはダニの生態世界がある。ダニはダニの感じるように生きる。それは拙くとも、下絵に色を塗っている。石とは誤差だが、やや違う気がします。僕は何でダニを擁護してるんだろうw石に等しいでもいいじゃないかw⸻(yjk)今、僕の理性とモ!さんの感性が交わりましたね♪ダニさんに読んで聞かせたくなるようなコメントです。彼らには何も響かない。でも、それを聞いた他の人の心には揺らぎを与えたかもしれません。ここに、モ!さんという人間が、またダニを介して新たな世界を創造したことになります。つまり、ダニに拙くとも色を塗らせたのはモ!さんです。世界は今たしかに、モ!さんの筆によって、ダニ一匹分の彩を手にしました。要は、「それぞれの生物が、その感覚器官と能力によって知覚し、意味づける“世界”。その意味付けを想像するのもまた人間なのでは?」というはなしです。⸻(モ!)確かに。言葉はそもそも人間のもので、思考もまた――人間以外の思考を排した思考しか、人間にはできないものだよね。ダニにはダニの世界がある。けれど、それは人間には感得できない。感得できないものは、関わり合いがないに等しい。それはつまり、人間にとっては――石と選ぶところがないのかもしれないね。⸻(あお)十八年も待てるダニのすごきこと。思考する人間には、とてもできない。人間は、考えることで世界に色を与えた気になっている。けれど――誰に見られずとも、ダニの世界は息づいている。それが、ただの事実。⸻(yjk)なるほど。『アカップオブティ』では「事実はひとつでも世界は違う」「真実は観測者の数だけある」と語られていた。だから僕は、ダニさんには理性も感性もないという前提で、感じることができない以上、それは機能としての事実しかなく、そこに感得される世界(真実)など存在しない——そう解釈していた。けれど、その解釈もまた、人間としての僕の理解の限界にすぎない。あおさんとモ!さんは、その理解の外側で「事実としてダニさんの世界は存在する」と考えるわけだね。僕は、他者の視点から見える世界は、自分には感じることも理解することもできないから、あくまで想像の域を出ないと思っている。だから、人の認識できる範囲では石ころと変わらないダニに対して、「誰に見られずとも、ダニの世界は息づいている」と語るのは、詩的で素敵だけれど、それを“事実”として受け入れるには少し抵抗を覚えるかな。事実とは何か。真実とは何か。――そして、世界って、なんだろう?皆さんは、どう思いますか?#観測者の宇宙 #コーヒー哲学いや#ダニ哲学 ?#ことばりうむの星