ナチュラル(実在)と幻想のいやしについて(文章編)先日は図にして形而上学をかきましたが今回は文章でかきます私たちは日常においても「自分」が見たままの状況(投影 五感)を事実(真実)だととらえ、それらに対する自分の反応(行動、考え、感情)も、ほとんど無意識(大自我の反映としての魂としての「自分」から)のうちに行っていますこれが内側から外側をみているという信念ですしかしナチュラルにおいてはただ在るからの空想のいやしが延長するのですアコースインミラクルズの場合はメソッドですが似たような表現として今この瞬間(すでにただ在る)のことを「聖なる瞬間」とよび空想のいやし(つまり心と投影のいやし)のことを五感そのままではなくいやされた「真の知覚」とよびます人間関係のいやしについては特別の愛、憎悪の関係ではなく「聖なる関係」とよんでいますそれらは在るがままからのナチュラルさにより空想努力の世界がいやされていることを表現している状態なのですそして、癒しが完了した最後の人生については実在である実相を反映した意味での実相世界とよんでいるのです内側を変えることにより外側をかえるという真の意味はじつはポジティブ心理や聖なる心理によるメソッドではありませんそれは今ここによるノーマインド的ないやしなのですポジティブメソッドはいまだ自我メソッドであり聖なるメソッドもまた、いまだ心がつかんでいる概念的メソッドです在る意味では内側も外側も幻想であり(変化の状態にすぎません)どうしても言葉で説明するなら内側(心)よりも内側にある、変わらない在るが実在とよべるかもしれませんがそれはじつはナチュラル(すでにただ在る)という無条件、無努力の意味なのです#ノンデュアリティ#非二元#スピリチュアル#アコースインミラクルズ#今ここ