最終話それでも、走っている朝は、まだ少しだけ風が冷たい。洗濯物を干す指先に、冬の名残が残っている。空を見上げると、春はもう来ている。来てはいるが、急いではいない。玄関で靴を履く音がする。「無理しすぎんでね」振り返ると、もう笑っている。関西の響きが、まだ少し残った返事が返ってくる。ドアが閉まり、足音が遠ざかる。毎朝のことなのに、少しだけ耳を澄ましてしまう。ここに来た人。そう思う。縛られていない。この街にも、ここにも。それでも、毎日ちゃんと帰ってくる。それで十分だと思えた。春の朝の熊本は、音がやわらかい。工事の音も、遠くのクラクションも、どこか丸い。背中越しに聞いた一言が、少しだけ胸に残る。無理しているつもりはない。ただ、無理をしていた時間が長すぎて、どこからが無理なのか分からなくなっているだけかもしれない。営業灯を点ける前に、深呼吸をする。帰る場所がある。それだけで、前を向ける。昼どき、コンビニの駐車場に車を止め、弁当を食べた。エンジンを切ると、ラジオの天気予報が流れる。熊本は、今日も穏やかだと言っていた。穏やか、という言葉が、前よりも自分の生活に近い場所にある気がした。午後、駅前で手が挙がる。「行き先……まだ決めてなくて」数年前の朝が、かすかに重なる。「ええですよ」信号が赤になる。春の光が、フロントガラスいっぱいに広がる。「この街、どうですか?」少し考える。「……すぐに答えは出ないと思います」それは、正直な答えだった。「でも、止まっても、走っても、どっちでも大丈夫な街ですよ」信号が青に変わる。動き出した瞬間、独り言のように言った。「逃げなかったわけじゃない。戻らなかっただけです」誰に向けた言葉かは分からない。それでも、言えるようになったこと自体が、ここまで来た証だった。夕方、アパートに戻る。ベランダに出ると、洗濯物の位置が少しだけ変わっていた。風向きを見て、掛け直したらしい。それを見て、何も言わなかった。「おかえり」その一言で、一日が静かに終わる。川沿いを並んで歩く。散り始めた花びらが、足元に残っている。春は短い。指先に残る冷たさごと、ここにある。逃げたことは、何度もある。それでも、戻らなかった。それだけで、ここまで来た。空を見上げる。もう、行き先を急いで決めなくていい。それでも、走ることはやめない。#短編小説#創作#それでも走っている