さすらいの途中年の瀬、僕は十年ぶりに実家に帰る。逃げるように出てきた実家だ。住所は覚えているのに、思い浮かべると胸の奥が重くなる。その家に行くのは、僕と、妻と、まだ首の据わらない赤ん坊。一人で逃げた場所に、家族を連れて行く。それだけで、十分すぎるほどの理由だった。タクシーは空港へ向かっていた。年末のせいか、道は混んでいる。信号のたびに、車は少しずつしか進まない。 後部座席で、僕はずっと喋っていた。喋らないと、考えてしまいそうだったからだ。今さら帰っても気まずい。どうせ親父は嫌味を言う。母親は泣くか、黙るかだろう。言葉は愚痴の形をしていたけれど、本当は確認だった。それでも行くのか、と。助手席で、妻が赤ん坊の背中を一定のリズムで叩いている。「まぁまぁ」と、宥めるように言う。その手つきが、妙に落ち着いて見えた。運転手は、ラジオもつけず、前を見ている。バックミラー越しに一度だけ目が合い、すぐに視線が戻った。交差点が詰まり、車は止まる。年末特有の、理由の分からない渋滞だ。僕は、ふと口を滑らせた。「逃げたんですよ。 十年も」信号は変わらない。そのとき、運転手が前を見たまま言った。「長いですね」責める声ではなかった。事実を、確かめるみたいな言い方だった。しばらくして、彼は続ける。「でも、 今日ここに乗ってはるってことは、 止まったわけでもないんでしょう」ウインカーの音が、やけに大きく聞こえる。「逃げた場所に行くのって、 戻るのとは、ちょっと違いますからね」信号が青に変わる。車は、ゆっくり動き出す。「今の自分で行くなら、 それはもう、 別の用事やと思います」それきり、運転手は何も言わなかった。しばらくして、ラジオがついた。小さな音で、さすらいが流れ始める。奥田民生の声だと気づいたのは、サビに入る少し前だった。歌詞は追わなかった。ただ、今の自分に近い音だと思った。胸の奥で、重たかったものが、少し形を変える。戻るんじゃない。謝りに行くわけでもない。 逃げた時間を、なかったことにしないまま、行くだけだ。空港の看板が見える。「ありがとうございました」降りるとき、運転手は小さく頭を下げた。「お気をつけて」それは、よくある一言だった。でも、今の自分は、その言葉をちゃんと受け取れた。ロビーに入ると、年末のざわめきが広がる。人の流れに、少しだけ飲まれそうになって、足を止める。そのとき、妻が赤ん坊を抱いたまま、僕を見る。「行こ」それだけだった。引っ張らない。背中も押さない。ただ、隣にいる声だった。歩き出す。逃げなかったわけじゃない。戻る覚悟ができたわけでもない。それでも、一人じゃない。それだけで、今日は十分だった。#短編小説#創作#さすらいの途中