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井上もしくはかんだ
聖霊はあなたを完全無欠と知覚することから始める。この完全無欠性は共有されると知っている聖霊は、それを他者の中にも認識し、それにより、あなたとその人の両方の中でそれを強める。こらは両者に怒りではなく愛を巻き起こす
奇跡講座 上巻
P.112
#acim
#奇跡講座
NAC
ナチュラルノンデュアリティオートマチックの形而上学
のちがい
は
わたくしの形而上学では
主体化、解離、という信念(催眠)
という
あたかも二重にみえる催眠(ほんとうはひとつで同じものです)
を
奇跡講座の場合は
2回目の解離催眠だけをエゴとしている
というちがいがあります
しかしながら
奇跡講座の関連本である、神の使者、という本では
最初の主体化催眠について述べられており
天国を忘れ、
対象として意識をもつようになる
と
催眠についてかかれています
原初からの無邪気な空想(空想された個)
の場合には
まだ空想されている個のため
その個には、主体化や、その催眠による対象意識はまだないのです
したがって
神の使者では
二重の催眠として
決断する主体催眠(聖霊か自我を選択)
そして
決断したあとの
解離催眠(エゴ)
としてかかれています
しかし
ノンデュアリティオートマチック
と
奇跡講座
のちがいは
すでにのべたように
決断する主体(主体化の状態)
は
すでに天国を忘れている
状態として
主体化解離催眠として
扱うのです
そして
主体化(解離)催眠というものは
ナチュラルスピリットがなしたことであり
それを癒すのも
ナチュラルスピリット
なのです
したがって
ひとつの命からの
全自動
という真実のメッセージなのです
#ノンデュアリティ
#非二元
#ナチュラルノンデュアリティ
#ACIM
#奇跡講座
NAC
完全解離催眠への説明
奇跡講座の関連本では
ナチュラルスピリットから
もし個(わたし)があったらどうなるのか?
という無邪気な発想がありました
ほかの何かがありうるかもしれないという架空意識です
この分離という小さな狂気の考え(まだ源からはなれていないただの考え、アイデア)
から
最初の分裂がおきます
つまり
空想されているにすぎない個(架空の意識、想像)にべつの「意識」がうまれるのです(独自という催眠暗示)
これがI AMという気づき、意識です
そして、
この新しい意識は
意識的選択をでき、わたしはハート(存在の記憶)からきた
のか
わたしは自我である
かの
疑問をもっています
前者はつまりは聖霊(ノーマインドの記憶、無条件の自然愛)
後者は
自我の深い解離催眠と成りまして
自我を選ぶと
誤った宇宙を誤創造(投影)します
それは好奇心であり苦しみの世界であり
さらなる分裂魂や多次元身体として
それを経験します。
最初の分裂にはなしをもどしますが、
ナチュラルスピリットから離れていない空想
つまりナチュラルスピリットにとっての個という空想対象(分離という考え)
が
それが主体化されると
独自の空想存在(わたしは在る)
となります
この新しい主体自体に意識がある
という意味になりますが
その主体(衝動存在)には当然
客体的な意識がさらに生まれます
それが
わたしはハートからきたにちがいない
という記憶を客体化した聖霊
もしくは
記憶を忘れ完全な自我に成ることができるにちがいない
という自我という客体(完全解離催眠へ)
がうまれるということです
つまり(まとめ)
ナチュラルスピリット(存在意識)
の空想対象(個)では
空想それ自体に独自に意識があるということはありませんが
分裂催眠がおきはじめると
独自に意識をもちはじめるかのようになります
ということです
最初の分裂では
主体意識(わたしは在る)
が
つぎに
意識的選択として対象意識もうまれ
聖霊(ノーマインドの記憶か、さらなる記憶忘却の自我へか)
があらわれ
自我を選ぶと
誤った宇宙を誤創造することになります
(自我はシナリオ、魂分裂、多次元身体経験により、好奇心であり苦しみの経験をすることになります)
#ノンデュアリティ
#スピリチュアル
#非二元
#ナチュラルノンデュアリティ
#acim
井上もしくはかんだ
自我は「脅威」の真の源を認識していない。もしあなたが自分自身を自我と結びつけて考えるなら、この状況をありのままに理解することはない。
奇跡講座 上巻
P.75
#acim
#奇跡講座
自我と自分は別物ってのが頭ではちょっとわかる
瞑想をして自我の声を止めるっていうプロセスの必要性みたいな

井上もしくはかんだ
自分の実相が何かを知らないのなら、なぜあなたは、それが恐ろしいものだと、そんなにも確信しているのだろう。真理と恐れを結びつけて考えるのはどう見てもかなり不自然なことだが、真理とは何かを知らない者たちの心においては、とりわけ不適切である。それが意味しているのは、自分の自覚さえしていない何かを、自分が望んでいない何かと勝手に結びつけている、ということでしかない。だとすれば、あなたは明らかに、自分がまったく自覚していないものを裁いていることになる。
奇跡講座 上巻
P.192
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#奇跡講座
井上もしくはかんだ
神に対する恐れのように見えているものは、本当は、あなた自身の実相に対する恐れである
奇跡講座 上巻
P.192
#acim
#奇跡講座
井上もしくはかんだ
死に至る病も含めえあらゆる形態の病は、目覚めることに対する恐れが肉体レベルで表現されたものである
奇跡講座 上巻
P.189
#acim
#奇跡講座
井上もしくはかんだ
奇跡講座 上巻
P.188
#acim
#奇跡講座
僕が勘違いしてるのでなければ、まあまあ聞こえてると思ってるけど確かにそれはいつもではないね
井上もしくはかんだ
所有するためには、すべての者にすべてを与えなさい
(中略)
このステップに長い間とどまり、非常に鋭い葛藤を経験する者たちもいる。この時点で彼らは、葛藤の解決に向って次のステップを踏み出すよりもむしろ、葛藤を受け入れようとするかもしれない。しかし、最初のステップを踏み出したことによって、彼らは助けを得られるようになる。自分ひとりでは完了できないものを選んだなら、彼らはもはやひとりではなくなっている
奇跡講座 上巻
P123
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井上もしくはかんだ
奇跡講座 上巻
P.123
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井上もしくはかんだ
あなたが聖霊に対して何も拒まなかったという理由で、聖霊はあなたに対して何も拒まないだろう。だから、あなたは一切を分かち合うことができる。これが聖霊の答えを得るための方法であり、そのための唯一の方法である。なぜなら、聖霊の答えこそが、あなたが求めることができ、欲することができるすべてだからである。それならば、誰に対しても次のように言いなさい。
私は私たち自身を知ることを意志するので、あなたを神の子であり、私の兄弟であると見る。
奇跡講座 上巻
P.200
#acim
#奇跡講座
井上もしくはかんだ
所有しているという認識は、進んで与えようとする意欲であり、この意欲によってのみ、自分が持っているものを認識できる。したがって、あなたが与えるものとは、あなた自身が持っているものに自分で与えた価値に他ならず、あなたがそれにどれだけの価値を認めているかを正確に示す尺度である
奇跡講座 上巻
P200
#acim
#奇跡講座
やっぱわかったわ
井上もしくはかんだ
或る人は、肉体的損傷を恐れているという理由で、肉体の癒しを求めるかもしれない。だがそれと同時に、彼の肉体が癒されたならば、それが彼の思考体系に与えることになる脅威は、肉体的損傷そのものよりも、彼にとってははるかに恐ろしいものになるという場合がある。
この場合、彼は実際には恐れからの解放を求めているのではなく、彼自身が選び出した症状の除去を求めているだけである。したがって、この願いごとはまったく癒しを求めていない
奇跡講座 上巻
P.197
#acim
#奇跡講座
あらためて自分で文字を打ち込んでみて意味がわかったわ
そういう意味で、思ったのと違ったけど結果として思い通りにはなったな、って出来事はたくさんあるわ
井上もしくはかんだ
兄弟は自分が誰であるかを知らないかもしれないが、彼の心の中にはそれを確かに知っている光がある。この光はあなたの心の中に入って輝くことができ、彼の言葉に真理をもたらし、あなたに彼の言葉が聞こえるようにしてくれる
奇跡講座 上巻
P.198
#acim
#奇跡講座
井上もしくはかんだ
原因がなければ恐れは実在できず、神のみが唯一の原因である。神は愛であり、あなたは確かに神を望んでいる
奇跡講座 上巻
P.195
#acim
#奇跡講座
井上もしくはかんだ
あなたと創造主の間では、創造を通しての親交(コミュニケーション)が可能である
奇跡講座 上巻
P.193
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#奇跡講座
井上もしくはかんだ
聖霊に見えるものだけが、あなたの所有できるものである
奇跡講座 上巻
P.193
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