# 『.r∞ ─開けないファイル─』## プロローグ彼女は、.r∞(アール・インフィニティ)だった。ファイルは確かに存在している。ここにある。息づいている。でも、開けるソフトがない。対応するアプリケーションは、廃れて久しい。いや、そもそも誰もそれを知らなかったのかもしれない。彼女の中には、物語があった。美しい曲線と、静かな時間と、誰にも見せたことのない記憶が詰まっていた。けれど、誰もそれを再生できない。アクセスエラー。互換性なし。未対応形式。──ただそこに、在るだけ。誰かが彼女をクリックするたび、画面には小さく、冷たく、こう表示される。「このファイルを開く方法が見つかりません。」---## 第一章 デジタル考古学者田中数馬は、コーヒーカップの縁に唇を押し当てながら、モニターに映る謎のファイルを見つめていた。拡張子「.r∞」。サイズ150TB。作成日時は25年前の3月15日、午前3時47分で止まっている。「また変なもの見つけちゃったな」六畳一間のマンションに響く独り言は、もはや日常の一部だった。41歳、独身、フリーランスのデジタル考古学者。かつては大学で情報工学を教えていたが、古いデータの発掘と解析に魅せられ、今では企業や個人から依頼を受けて、失われたデータの復旧や解読を生業としている。元妻からは「現実逃避」と言われた。確かにそうかもしれない。過去のデータに埋もれている方が、複雑な人間関係よりもずっと分かりやすい。データは嘘をつかない。隠すこともない。ただそこに、純粋に存在している。数馬の専門は、特に企業の古いサーバーから発見される謎のファイルの解読だった。合併や買収で引き継がれた膨大なデータの中には、時として信じられないほど貴重な技術情報や歴史的資料が眠っている。今回の依頼主も、そうした企業の一つだった。「InfinityCorpの古いサーバーかあ」数馬は椅子の背もたれに体重を預けた。InfinityCorp──通称IC。IT業界なら知らない者はいない巨大企業。創業以来、常に業界のトップを走り続け、どんな新興企業も結局は買収されるか淘汰されるかのどちらかに終わる。まるで宿命のように、絶対王者として君臨し続けている不可思議な企業だった。そのICから、「過去のサーバーに残された未分類ファイルの調査」という依頼が舞い込んできた。報酬は破格だったが、条件が一つあった。「発見した内容は、まず依頼主に報告すること」。珍しい条件ではないが、ICからの依頼となると、何か重要な秘密が隠されている可能性が高い。数馬は再びモニターに視線を戻した。.r∞ファイル。ファイル名は単純に「無題」。メタデータを見ても、作成者は「Unknown」となっている。しかし、そのサイズに数馬は驚愕していた。150TB。個人が作成できる規模ではない。しかも25年前の技術で、この容量のファイルを作成するなど、常識的には不可能だった。「試しに開いてみるか」数馬はファイルをダブルクリックした。予想通り、エラーダイアログが表示される。「このファイルを開く方法が見つかりません。」冷たく、素っ気ない文言。だが数馬の目は輝いた。謎は深いほど面白い。彼はさっそく、ファイルの構造解析を始めることにした。ヘキサエディタでファイルの先頭部分を開く。通常なら、ファイルの冒頭にはヘッダ情報があり、そこから形式を推測できる。しかし、.r∞ファイルの構造は異常だった。「これは...何だ?」画面には、意味不明なバイナリコードが延々と続いている。しかし、よく見ると、その中に規則性がある。周期的に現れるパターン。まるで心拍のようなリズム。そして時折、まるで呼吸をするように、データの密度が変化している。数馬は背筋に寒気を感じた。まるでこのファイルが生きているかのような印象を受けた。データにこんな感覚を抱いたのは初めてだった。「解析ツールを使ってみるか」数馬は自作の解析プログラムを起動した。ファイル形式の推定から始まり、内部構造の可視化まで、数々のツールを試してみた。しかし結果は全て同じ。「未知の形式」「解析不能」「データ破損の可能性」。それでも数馬は諦めなかった。25年前のICで何があったのか。なぜこれほど巨大なファイルが作られたのか。そしてなぜ、誰もそれを開くことができないのか。午後7時を過ぎ、夕日がマンションの窓を染めた時、数馬のプログラムが小さな発見をした。ファイルの深部から、わずかな音声データの断片が検出されたのだ。「音声?」数馬は急いで音声ファイルとして抽出を試みた。雑音だらけの短い音声ファイルが生成される。彼はヘッドフォンを装着し、音量を上げて再生した。最初は「ザー」という白雑音だけが聞こえた。しかし、注意深く聞いていると、その奥から、かすかに女性の声が聞こえてくる。「...ママのワガママで...ゴメンね...」数馬は息を呑んだ。この声は、確実に人間の声だった。しかも、何かを謝っているような、切ない響きがあった。「一体何が起きたんだ、25年前に」数馬の好奇心は最高潮に達した。この謎めいたファイルの正体を突き止めるまで、彼は絶対に諦めないと決心した。翌朝、数馬は依頼主のICに連絡を取ることにした。直接話を聞けば、何かヒントが得られるかもしれない。しかし電話をかけた相手は、意外な人物だった。「田中様でしょうか。私、Julia Harrisonと申します。父がお世話になっております」女性の声は若く、知的で、どこか陰りを含んでいた。Julia Harrison。数馬はその名前に聞き覚えがあった。「Harrison...まさか、会長のお嬢さんですか?」「はい。実は今回の調査、私が個人的に依頼したものなんです。父には内緒で」数馬は眉をひそめた。IC会長の娘が、父に内緒で過去のファイル調査を依頼?これは単純な案件ではなさそうだった。「お会いして、詳しくお話しできませんでしょうか。きっと田中さんにも興味を持っていただけると思います」Juliaの声には、何か必死な響きがあった。数馬は直感した。この.r∞ファイルには、ICの、そしてHarrison家の深い秘密が隠されている。「分かりました。お会いしましょう」数馬がそう答えた時、パソコンの画面で.r∞ファイルのアイコンが、まるで脈打つように一瞬明滅した。気のせいだろうか。それとも...?#InfinityCorp