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オタクが生成する「共同体」
(ヘーゲルの「共同体」からの考察)

オタクとサブカルは以下のような概念であると仮定することができる。

サブカル:(特定の作品や実践を媒介として、自己を他者から個別可能な〈個〉として意識化・演出化しようとする態度)

オタク:(ある特定の作品に関心を持つ共同体に溶け込むことで、個別性を損失するその過程そのものを享楽すること)

サブカルとオタクの概念について、上記のように定義した時、オタクが生成する共同体はヘーゲルの示す「共同体」と関連性があることを指摘することが出来る。このとき、「サブカル」的態度を、ヘーゲル哲学の前でどのように再定義すべきかが問題となる。もしこの議題について意見がある方がいれば、コメントして欲しいです。

※ヘーゲルからの引用、また二次文献からの引用などの詳細は以下に記載


オタクが生成する「共同体」
(ヘーゲルの「共同体」からの考察)

近年、コロナ禍による「おうち時間」の拡大を背景として、従来はオタク文化に属すると見なされてきた行為(アニメ視聴や推し活など)が、一般社会において広く受容されるようになった。これを契機として、主にインターネット上において、オタク的行為をある種のサブカルチャーとして再編・包摂しようとする動きが見られるようになった。しかし、オタクとサブカルは、その成立原理において相反するものである。

オタクとサブカルは以下のような概念であると仮定することができる。


サブカル:(特定の作品や実践を媒介として、自己を他者から個別可能な〈個〉として意識化・演出化しようとする態度)

オタク:(ある特定の作品に関心を持つ共同体に溶け込むことで、個別性を損失するその過程そのものを享楽すること)

例えば、メイド喫茶に赴いたとき、「オタク」は目の前にいるメイドさんが本当のメイドさんではないと分かりつつも、そのメイドさんを実在するものとして正面からメイドさんとの会話、あるいはメイドさんがいる喫茶店という空間を楽しむに徹する。

これに対し、「サブカル」的態度とは、幻想としてのそのメイドさんの役割が幻想であることを知った上で、それを正面に信じるわけでなくむしろ幻想が壊れる瞬間、すなわち退勤後に裏の階段でタバコを吸うメイドさんを想像してそれを楽しむこと(それはすなわち、幻想として現実の距離を認識し、その距離を自己のアイデンティティ形成に利用すること)。あるいは、「メイド喫茶に行く自分」というように、自分自身をある種、カテゴライズすることに喜びを感じることである。

サブカルとオタクの概念について、上記のように定義した時、オタクが生成する共同体はヘーゲルの示す「共同体」と関連性があることを指摘することが出来る。このとき、「サブカル」的態度を、ヘーゲル哲学の前でどのように再定義すべきかが問題となる。

ヘーゲルは「人倫」と呼ばれる共同体について『精神現象学』にて以下のように説明する。


だから、かく規定されるときには、人倫的実体は、現実的実体であり、多くの定在する意識のうちに実現された絶対的精神なのである。この精神は、共同体である。この共同体は、さきに理性一般に実践的形態を与えようとしたときには、われわれにとって絶対的本質であったのだが、いまここでは、この精神はその真実態をとり、自分自身で意識的人倫的本質として、またわれわれの対象となっている意識に対する本質として、現われ出ているのである。この共同体は精神である。これは、個々人が互いに映現し合うことのうちに、自己を保っているのであるから、自覚的であり、―また個々人を自己のうちに保っているのであるから、自体的である、つまり実体である。この精神は、現実的実体としては民族であり、現実的意識としては民族の市民である。この意識が自らの本質を持っているのは、単一な精神においてであり、自己自身を確信しているのは、民族全体というこの精神の現実においてである。しかも自らの真実態をもっているのは、直接この現実においてである、したがって、現実でないようなあるものにおいてではなく、現に存在し妥当している精神においてである。(ヘーゲル『精神現象学 上』1997: 23,24)


加藤は「人倫」を、絶対的で明瞭な統一体、すなわち、生命的な国家であると解釈する(cf. 加藤 『哲学の使命』2007: 379) 。加藤の解釈によると、国家は、社会的な身分が千々に乱れたり変化したり、勢力争いをしたりしているけれども、すべてのそういう勢力を超越したい高い静止体だ。個別的な行為は偶然的であるけれども、その個別的な行為が全体としては必然的である、だから一人ひとりの人間はでたらめに行為しているが、全体を集めるとそれはある一つの静止した輪や必然性を形づくっている(cf. ibid: 379,378)。

また、樫山欽四郎は国家について次のように述べる。

次に国家を言うときには、ヘーゲルは民族ということをいつも背景として考えたいのですが、それをいわば最も純粋な形態としてギリシアにおいて考えていたのです。そこでギリシアのポリスの中では個人がいながら個人の自覚をもたずして、なおそこに全体の調和があった。そういう社会をギリシアに見つけることができると考えたわけです。(樫山欽四郎『哲学の課題』,2004:46)

ヘーゲルのギリシア観は『精神現象学』の次の文章から伺うことができる。

ある民族[ギリシア]の生活のうちには、実際に、自己意識的理性の実現という概念が、すなわち他人の自立性のうちに、この他人との完全な統一を直観すること、言いかえれば、この実現の概念とは、私自身を否定するものでありながら、私によって見つけられた、他人のこの自由な物性を、私が私で在ること[私の、私にとっての存在=私が私を自覚していること]として、対象とするという概念が-完全な実在性をえている。このとき理性は、流動的一般的な実体として、不変で単一な物性として現存しているが、また、光が、自ら輝く無数の点である星に分散するように、完全に独立な多くの存在者に分散する。これらの存在者は、自ら絶対的に独自存在でありながらも、単一な自立的な実体のうちでは、解体されているが、これらは自体的にそうなっているだけでなく、自ら自覚的にもそうなっている。これらの存在者たちは、みずから個別的自立的な存在者であると意識しているが、そうなるのは、自らの個別性を犠牲にし、この一般者も、やはり、個別者としてのそれらの存在者の行為であり、それらの存在者によって生み出された作品なのである。(ヘーゲル『精神現象学 上』1997:399)

ただし、ここで言われる「個別性の犠牲」とは、個人が共同体の中で単に自己を消失させることを意味するのではない。むしろそれは、個人が自己の直接的な個別性を否定することによって、一般的な実体の一契機として自己を成立させるという、ヘーゲル的な止揚(Aufhebung)の運動として理解されるべきである。

このように、人間が、自らの個別性を犠牲にすることによって生成される作品(=共同体)というヘーゲルの表現は、先に示したオタク概念と類似する点があることがわかる。

問題は、このとき「サブカル」的態度を、ヘーゲル哲学の前でどのように再定義するべきか、という点である。

ここで注目すべきなのは、ヘーゲルが古代ギリシアの共同体を理想としつつも、これを退けた点である。
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