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おさんぽみるく


アンガーマネジメント
能力主義は、中立を装う。個人の努力や才能を基準とするその言説は、性別や出自を超えた公平性を約束するかのように振る舞う。しかし実際には、能力主義は常に既存の社会構造を前提として作動する。どの能力が評価され、どの能力が不可視化されるのかは、すでに社会的に決められている。その枠組み自体が問われない限り、能力主義は差別を解消するどころか、差異を「自己責任」として内面化させる装置として機能する。
この歪みは、女性であることによって自動的に自覚されるものではない。むしろ、能力主義を内面化した主体ほど、自らの立場を「個人の成功」として語り、構造的条件を語る言葉を失う。そこでは、女性であるという経験は、社会的分析の資源ではなく、克服された過去として処理される。結果として、女性が語っているにもかかわらず、「女性として考える」という回路が閉ざされる。
私が「女性意識が問題だ」と書いたのは、女性が誤っていると言いたかったからではない。議論の場に複数の女性が存在し、なおかつ能力主義の歪みが検討対象にすらならなかった、その事実自体が示しているのは、主体の性別ではなく、主体が依拠している思考形式の問題である。思考の歪みの可能性を指摘しても取り合われなかったのは、その歪みが、すでに「常識」や「合理性」として共有されていたからだ。
フェミニズムが制度や政策の言語へと収斂していく過程で、しばしば失われるのは、主体が自らをどう理解しているのかという問いである。誰がどの位置にいるか、どの属性を持っているかではなく、その主体がどのような社会観を前提に語っているのか。その検討を欠いたままでは、女性の声は増えても、女性の思考は現れない。
能力主義は、人を救う言葉のように見えて、人を孤立させる。成功した者には沈黙を、脱落した者には自己否定を強いる。その構造を可視化するためには、「私は能力で評価された」という語りの背後にある前提を疑う必要がある。その疑いを引き受けない限り、女性が語っても、社会は変わらない。
問題は、誰が語っているかではない。
問題は、何を語れなくさせている思考が、その場を支配しているかである。
おさんぽみるく


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