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バフのすり身
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なお
僕は最近、こんな自分自身の経験を思い返していました。
ついカッとなって、大切な人にきつく言ってしまった後、「ああ、またやってしまった…」と後悔する瞬間です。
その時、聖書の中のモーセの一つのエピソードが、以前よりも深く胸に刺さるようになりました。
民数記20章に記された「水が出る岩」
荒野を旅するイスラエルの民が、またしても水がないと不平を言い始めました。
その時、神はモーセにこう命じられます。
「杖を取り、兄弟アロンと共に民衆の前に進み出よ。彼らの目の前で岩に命じて水を出させなさい」(民数記20章8節、大意)
ここでヘブライ語原文を見ると、神が命じた言葉に注目すべき点があります。
神は「岩に命じなさい」と言っています。
ヘブライ語で「命じる」を意味する「דַּבֵּר」(ダベール)は、言葉で語りかけることを指します。
つまり、神はモーセに「岩を打て」ではなく、「岩に言葉で語りかけよ」とお命じになったのです。
モーセの「二度打ち」
しかし、モーセはどうしたでしょう。
彼は民の前でこう叫びました。「聞け、反抗する者たちよ。われわれがこの岩から、あなたがたのために水を出さねばならないのか」(同10節、大意)
そして、岩を二度、杖で打ったのです。
確かに水は出ました。民と家畜は飲むことができました。
でも、僕がこの場面を読むたびに感じるのは、モーセの行動の中にある「わずかな、しかし決定的なズレ」です。
神は「岩に語りかけよ」と命じられたのに、モーセは「われわれが…出さねばならないのか」と言い、岩を打ちました。
その「二度」という動作の中に、僕はつい見逃してしまいそうな重大なことが隠れている気がしてなりません。
カナンの地に入れなかった理由
神はその後、モーセとアロンにこう宣告されます。
「あなたがたはわたしを信じず、イスラエルの人々の目にわたしの聖なることを現さなかったから、この会衆をわたしが与えた地に導き入れることはできない」(同12節、大意)
たった一度の、岩を二度打った行為。
なぜそれが、約束の地カナンに入れないという、これほどまでに重い結果につながったのでしょう。
僕が思うに、ここでの核心は「行為そのもの」よりも、「行為に表れた心の姿勢」にあるような気がします。
モーセはその瞬間、神の指示を正確に伝える「器」としてではなく、民の不平に苛立ち、自分自身の力と権威を示そうとしてしまったのではないか。
「神の聖なること」を民の前に現すべきところを、「自分たち」を前面に出してしまった。
そのわずかなズレが、神との関係における決定的な違いを生んでしまったのだと、僕は感じずにはいられません。
僕自身に問いかけること
この話を読むたび、僕は自分自身に問いかけます。
自分もまた、神に委ねるべき場面で、つい自分の力や方法に頼ろうとしていないか。
人々の前に立つ時、神の栄光を現すよりも、自分の正しさや能力を示そうとしていないか。
モーセのこのエピソードは、神と共に歩むことがいかに細やかで、全人格的な関わりを求めるものかを教えてくれます。
たとえ長年信仰の道を歩んできた者でも、一瞬の心の緩みが、神との関係を損なうことがある。
それほどまでに、神は私たちの「心の向き」を大切にしておられるのだと感じます。
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代走に5886ばっか使ってるやん
たしかに状態良いもんな

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