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うちゅうのちり

うちゅうのちり

好みを驕るのは、愛への冒涜である。

人は誰かを好きになるとき、必ず「好み」を持ち出す。
それは声の高さかもしれないし、笑うときの目の形かもしれない。
つまり、愛のはじまりはいつだって自分の美意識から始まる。
だから好みを持つことは、決して悪ではなく、
人がこの世界で“美”を感じ取る最初の力である。

けれどその好みを、自らの理想を正義として誤解した瞬間に愛は静かに崩れていく。
相手を理想の枠に押し込み、
変わっていく現実を拒んだ瞬間、
愛は“自分が見たいもの”を愛する行為にすり替わる。それこそが、愛への冒涜だ。

愛とは、本来、観察することだ。
変わりゆく相手を見つめ、その都度、もう一度愛し直すこと。
相手を変えようとするのではなく、
相手が変わっていく過程を受け止めること。
その静かな努力の連続が、愛を「継続」へと変える。美の“崩壊を見守る勇気”だと言ってもいい。好みにすがり、理想を掲げる者は、
結局のところ、愛を愛さず、己の観念を愛している。

だが、そこには面白い矛盾がある。
人は最初、好みで誰かを選ぶのに、
やがてその“好みから外れていく相手”を愛し続けようとする。
矛盾しているように見える。
けれど、愛とは本来、矛盾を抱えてこそ成り立つ構造なのだ。

恋は好みから始まるけど、
愛はその好みを何度も裏切りながら続いていく。
相手も自分も変わり、世界も変わる。
そして自分の“好み”すら、相手を通して変化していく。その更新を受け入れる柔軟さが、愛の成熟なのだ。

恋とは直線的で燃え尽きるもの。
愛とは螺旋的で形を変えながら続いていくもの。矛盾を抱き、痛みを許し、変化を受け入れてなお、隣に在ろうとする。
それが人間の愛であり、愚かさでもある。

愛の本質は、理想の一致ではない。
むしろ、矛盾と変化を受け入れる勇気にある。
好みを驕ることは、その矛盾を拒む行為だ。
だが、矛盾を抱きしめること。
それこそが、愛を愛たらしめる唯一の条件なのだ。

この矛盾の理を知らぬまま、
人はただ“好きだ”という感情に頼って結婚し、
やがてその感情が薄れたときに、
「愛が終わった」と錯覚するのかもしれない。
だが、愛とは終わるものではなく、
変化を受け止める技術であり、覚悟である。

だからこそ、
結婚して何十年も共に在り続ける人々を、僕は深く尊敬する。
彼らはきっと、この矛盾の中を静かに歩き続けているのだ。
愛が形を変えてもなお、手を離さぬこと。
それは、最も人間的で、最も美しい生の証と言えるのかもしれない。
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好みを驕るのは、愛への冒涜である。