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やまじゅん
「推し活」という言葉をよく聞くようになった。でも、アイドルを応援する行為は昔からある。かつては「ファン」や「追っかけ」と呼ばれていた。何が変わったのだろう。
実はこれは擦られまくってる話題だ。
しかし、実はそれが、消費を奨励する社会構造によるものだと言及しているものは少ない。
さて、気づいたのは、「活」という一文字だ。
就活、婚活、妊活。
これらに共通するのは、私的なことを社会的な活動として位置づけるニュアンスだ。
「ファン」は状態を表していた。
「推し活」は活動を表す。認知される営みとして認識されるのだ。
私のバイクの話
私はカブ(小型バイク)に乗っている。
一人で走る。
風を感じる。
それだけで満たされる。
誰かに見せるためではない。
以前、カブのミーティング…つまり愛好者の集会に参加した。
そこはカスタムを披露する場でもあった。
カリスマがいて、序列があった。
なんだか面倒だな、と感じた。
なぜか。
私は誰かに評価されるためにバイクに乗っていないからだ。
バイクに乗る喜びは、私の中で完結している。
消費と浪費
ある哲学者は「消費」と「浪費」を区別している。
消費は、使ってもすぐに次が欲しくなる。
終わりがない。
浪費は、十分に味わって、そこで満足する。
完結する。
私のバイクは浪費に近い。
走る時間の中で完結している。
推し活は消費の構造を持ちやすい。
グッズを買い、次を買う。
貢献し、承認を得て、また貢献する。
終わりがない。
推し活がやめられず経済的につらい人もいるらしい。
推しの作品に心が動くとき…
その個人的な体験が、消費と承認の回路に覆い隠されてしまうことがあるのではないか?
二つの幸福
二種類の幸福があると考えている。
社会的幸福
承認、帰属、つながりの中で得られるもの。
実存的幸福
自分で完結する喜び、体験そのものの中にあるもの。
両方を求めることは健全だ。
推し活は社会的幸福のモデルをよく整備している。
コミュニティがあり、承認があり、貢献の実感がある。
それは、孤独な時代において価値がある。
でも、その回路ばかりが肥大化すると、実存的幸福…名前のない、完結する喜び…が見えにくくなる。
結局、推し活とは何か。
「好き」という個人的体験を、社会の回路に接続するための形式である。
接続によって、孤独だった体験は共有され、承認され、意味を与えられる。
それは価値あることだ。
でも回路が肥大化すると、接続されたはずの「好き」が見えなくなる。
だから、両方を持つことが大事だと思う。
推し活を楽しみながら、その奥に「好き」を持ち続けること。
消費の回転から降りて、対象を十分に味わう時間を持つこと。
それが、自分の欲望を見失わないための、一つの道筋ではないかと思う。
そうでないと「推し活」という消費形態の中で、消費されてしまうのだ。
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わせりん
超愛でられないと意味無くない?!

ぷ
何が優れてるとかも無いんだよ、結果として良いもの残せるかでしょ。

フォローいらない
みなとざき
めっちゃ見に行きたい!
この日夫が仕事で車🚙乗っていっちゃうから😭😱😣😢
バス🚌乗っていっぱい歩いてじゃないと行けないよー🤣笑
#札幌 #アベイル #日焼けキティちゃん



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