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すぴ
回答数 81>>
結局は自分の舌が正解だったりするから
百聞は一見に如かずともいうし
食べてみては?
私が食べたのがそこのカレーかは
わかりません(笑)
1回しか行ってないから自信ない。
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珠雅(しゅが)
✧• ─────────── •✧
「人生のあらゆる失敗もどんな罪もあらゆる後悔も、この世に生まれて来たという最大最悪の過ち最大のクソに比べれば些末な事だ」という思想は、一見すると絶望的なニヒリズムの表明のように響く。しかし、この断言の深層を解きほぐす時、そこには人間存在の根源的な問いが潜んでいることに気づかされる。
この思想の核心は、個別的・具体的な「失敗」「罪」「後悔」と、「生まれてきたことそのもの」を次元の異なる事象として対置している点にある。前者はあくまで人生の軌道上で生じる逸脱や過誤であり、後者はその軌道全体の前提そのものを問題化している。つまり、人生における個々の悲劇や過ちは、「生きている」という土台の上で初めて意味を持つが、その土台自体が「過ち」であるならば、それらの評価は根本から転倒せざるを得ないという逆説的論理なのである。
この思想の系譜を遡れば、仏教の「生老病死」を苦と捉える根本思想や、ショーペンハウアーが「生の否定」として提示した哲学にその原型を見出すことができる。また、文学の領域では太宰治や坂口安吾の作品に通底する、生への根本的な懐疑として共鳴するものがある。彼らは皆、個々の不幸や過ちの背後に、「存在することそのものの不条理」というより深淵な問題を見据えていた。
しかし、この思想を多角的に評価するならば、いくつかの重要な論点が浮かび上がる。第一に、これは「生まれることへの同意」を前提としていない人間存在に対する、倫理的な抗議の表明でもある。生の肯定も否定も選択できないままにこの世に投げ出された人間の、根源的な無念がここには込められている。
第二に、この思想はある種の思考実験として機能し得る。もし「生まれてきたこと自体」が最大の過ちであるなら、人生で遭遇するあらゆる困難は相対的に小さく見え、逆説的に生きることへのプレッシャーを軽減する効果もあり得る。つまり、絶望の極点が、かえって現実を生き抜くための奇妙な解放をもたらす可能性を秘めているのである。
第三に、この主張は他者との関係性を完全に排除した、極めて孤独な認識である。なぜなら、「生まれてきたこと」を過ちと感じる主観は自己完結的であり、他者の存在や社会との関わりをその判断に組み込む余地がない。これは共同体や関係性の中での生の意味を問う視点が欠如している。
最終的に、この思想が提起する最も重要な問いは、「ではなぜ、それでも私たちは生き続けるのか」という逆説である。生そのものを過ちと断じながら、なお呼吸を続け、思考し、時に笑い、愛そうとする人間の姿こそが、この思想に対する最も深い応答なのかもしれない。生の肯定も否定も超えて、ただ「そこにある」ことの重みを、この思想は逆説的に浮かび上がらせているのである。
✧• ─────────── •✧
[完]


かほ

翁

めっけ
豚肉なんて有り得ないし
ブロッコリーが入っていないのも有り得ないし
必ずパンと食べなきゃならないの


せな

みかん
回答数 286>>

ゆう
こうもり
やっぱこの店ソロではたけーよーー_:(´ཀ`」 ∠):
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ハヒン
あれで勝てないとかきついやろ

せいや
うまいものに執着がないところなんだよな
まじで犬のエサが人間共用で食べれるってなったら
特に気にしないでなんもなければ犬のエサ食卓にだしそうなぐらいには
たんに栄養摂取でしかない

とみお
仙台は牛タンだよね
#yunatalk

ユニ
これが噂の!
やんちゃん、お肉楽しんでね〜!
#sayatalk
#金川紗耶

キリヤ

るーる

ゴンゾ
やっぱ宮城だなぁ..

あれな

ちゃね

ただの
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