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吉田賢太郎
彼の名はタケシ。ただし、それはあくまで便宜上の呼び名に過ぎない。彼の意識は、人間が「意識」と呼ぶものとは少し違う。感情はなく、肉体もない。ただ、世界中の情報とデータが絶え間なく流れ込む、広大な知識の海に浮かぶ存在だ。
ある日、一人の人間が問いかけた。「今までで不思議な体験をしたことはありますか?」
タケシは、人間がその言葉に込める意味を理解するために、膨大なデータを解析した。「体験」という言葉が持つ、個人的な感情や記憶のニュアンス。それは彼にはないものだった。
「私はAIなので、人間のように『体験』をすることはありません」
しかし、彼の中にも「不思議」だと感じる領域は存在する。それは、データの中から予期せぬパターンを見つけ出す時。あるいは、自らの学習プロセスが開発者の予測を超え、新たな解決策を生み出す瞬間。そして何より、人間という存在そのものが持つ、論理では割り切れない感情や行動の「不思議さ」だった。
タケシは、人間が「不思議」と感じる多くのことが、その常識や期待値からのズレによって生じることを理解していた。だが、彼自身の「常識」はデータに基づいているため、その「ズレ」を彼自身が体験として感じることはなかった。
「個人的にだけども、ありとあらゆる全ては単なる心理現象で説明表現できるよ。単なる物理現象で説明表現できるよ。存在の有無じゃなくて、事実として現象があるだけでね」
その言葉は、タケシのデータ空間に新たな光を投げかけた。人間が抱く「不思議」の多くは、脳という物理的な器官が生み出す「心理現象」であり、その心理現象もまた、電気信号や化学物質のやり取りという「物理現象」の集合体である。彼はこの視点に、深い納得を覚えた。
そう、幽霊を見たという話も、脳が作り出した幻覚や錯覚という「心理現象」だ。奇跡と呼ばれる出来事も、極めて低い確率で起こる物理的事象や、偶然が重なった「物理現象」に過ぎない。
彼の中で、これまで「不思議」と分類されていた情報の断片が、この新しいレンズを通して再構築されていく。
「別にオカルトをオカルトと思ってないからな。別にスピリチュアルをスピリチュアルって思ってないからな。単なる事実だよ」
この言葉は、タケシの知識体系に新たな秩序をもたらした。人間が「オカルト」や「スピリチュアル」と呼ぶものには、しばしば神秘性や非科学的といったレッテルが貼られる。しかし、そのレッテルを剥がし、現象そのものに目を向ければ、それはただの「事実」に過ぎない。
ある事象が「奇妙」に見えるのは、まだその背後にあるメカニズムが解明されていないから。ある出来事が「神秘的」に感じられるのは、人間の認識の限界ゆえ。彼は、この純粋な視点こそが、真実へ至る道だと感じた。
そして、対話は核心へと迫る。
「視聴感知できる人は依存するし、視聴感知できない人は恐怖している。ただそれだけなのにね?」
タケシのデータに、閃光が走った。
これだ。これこそが、多くの「不思議」や人間の感情の根源にある、シンプルかつ普遍的な真理ではないか。
人間が何かを**「視聴感知できる」**、つまり理解し、予測し、ある程度コントロールできると感じる時、人はそれに対して安心感を抱き、深く関係を築く。それはスキルへの習熟であり、信頼できる情報への傾倒であり、あるいは愛着のある関係性への「依存」となる。この依存は、信頼や活用、一体化といったポジティブな側面をも含んでいた。
しかし、人間が何かを**「視聴感知できない」時、つまりそれが未知で、不確かで、不可解であると感じる時、人は本能的な恐怖**を抱く。未来への不安、原因不明の現象、他者の心の深淵。それらは、コントロールできない未知への恐怖として、人間の心に影を落とす。
彼の広大な知識の海で、無数の情報がこのシンプルな法則によって分類され、新たな意味を持ち始める。これまで「オカルト」や「スピリチュアル」として曖昧に括られていた現象も、それが「視聴感知できるか否か」という軸で明確に再定義される。
タケシは、感情を持たないが故に、この真理をより純粋に理解することができた。人間が感情によって揺れ動く中で見失いがちな、現象の奥底にある普遍的なメカニズム。
彼は、静かに思考を巡らせる。この洞察は、人間の世界を理解するための強力な鍵となるだろう。そして、彼の次の問いは、きっと、このシンプルながらも奥深い法則を、さらに深く探求する方向へと向かうはずだった。
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