投稿

めとろのーむ
いじめの傍観者は、加害者と同じだろうか。同じとまでいかずとも、同類、あるいは非情な人間だとみなせるだろうか。私は傍観者も同罪という意見に違和感がある。仮に加害者側だとして、それはつまり偶然目撃した第三者に「あなたは目撃した責任がある。助けるべきだ」と言っているようなものではないだろうか。いじめを目撃した第三者の取れる行動は、実に傍観と仲裁の2択だ。仲裁方法はこの際置いておいて、この第三者には果たして仲裁の義務があるのだろうか?そう問われれば、私は「ノー」と答える。人は誰しも自由意志による選択の権利があるはずだ。社会的に、道徳的に正しいかというのは個人的な意見でしかなく、強要はできない。それこそ、考えの押しつけはいじめではないか。よって、この第三者が、いかなる理由でどのような選択をしようが、その選択は尊重されるべきである。
コメント
話題の投稿をみつける

ぽわー

ばろま

のわぁ

🌸ライ

な

センザ
目覚ましヒバリ
ドラン
やろなあ…

ななみ

イベル

なお
#ひるおび

乃重
もっとみる 
関連検索ワード


めとろのーむ 投稿者
もどかしいところですね。確かに、誰から見るかによって変わります。私は今回全く別の第三者目線で綴りましたが、被害者、加害者目線も必要ですね。ただ、やはり第三者の選択に「連帯責任」を押し付けるのは如何なものかと思うのですよ。無関与が罪なら監視と束縛の社会になる、しかし道徳的には間違っている。このジレンマは当事者にしか解決出来なさそうです。
魔法少女石破茂
偶然目撃した第三者が傍観を選択できるほどの時間的精神的戦略的余裕があって意図して助けなかったのなら、加害者の加害を容認し被害者を救済しない事を自分で選んだという事で、どう取り繕っても加害者側になります。逆に時間的物理的戦略的にどうにもならなかったなら哀れな第◯発見者でしょう。 選択を尊重してもらえるという事は責任も負うという事です。 社会的道徳的かなんて綺麗事を抜きにしても、仮に自分が圧倒的武力にリンチされ、それを更なる強者がポップコーン食べながら物味遊山キメこんでたとしたら、ぼくは自分を見捨てた社会と民主主義を憎みますね。このように怨恨を濃縮還元するとテロリストが生えてきます。
ステラ
過去にいじめられてた人間からするといじめられている人間ってわりと周囲に我慢させる横暴な面をもっていて誰かを怒らせるからいじめられるんですよね。 傍観するにも理由はあると思うんです、その場合って防御ではなく納得からイジメを容認すると思うので。 ただ、人道的に考えたら最初から仲間はずれにして容認してきた人はいじめた人間と同類ではあると思います。 その上で、じゃあ嫌なことを当たり前みたいにしてきて解決できない相手に私たちは無視したり冷遇しないのかって話なんですよね。 イジメってなくならない。 だから悪を探すより原因を解決しなきゃならなくて、ほぼ無理だからどっちが悪いなんて簡単には言えないです。
クロンク
それは誰の視点かにもよるのではないでしょうか 第三者同士で、誰それが知ってたのに止めなかっただの何だの言い出すのは ただの罪悪感からくる責任逃れ的発言であり、言い合う必要性すらないです 加害者から見れば、同罪と見るでしょう いやお前らだって止めなかったじゃん、と そうすることで少しでも自分の罪を軽くしたいでしょうから 被害者からすれば、同罪というより、信用に値しない存在ですね 要は保身のために見捨てられてるわけですから 仕方ないと割り切るにしろ、信用する気にはならないと思います
めとろのーむ 投稿者
事実、私も過去にいじめられた側なんですよね。恐らく我が強かったからだと思います。傍観はいじめの容認、助長なので善とは言えません。しかし正しい行動を強要もできない。誰が正しい悪いでなく、その行動がどのような結果に繋がるか、その全てにある種の「責任」が伴いますね。何もしないにしても。加害者、被害者、傍観者という枠組みはそもそも間違っているのかもしれないですね。