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リクリ
どんなに真理や正論を持ったところで、それは自分のものでしかない。それが、他人に通用しないことなどざらである。
一般論では正しくとも、必ずしも万人に通用するわけではないのだ。十人十色の意思があり、思考も思想も様々である。
だから、SNSでの意見の押し付けというのは、実に無意味に思える。自分の意思や正しさを相手に押し付け、白を黒に変えたい、というのはとても暴力的な関わり方だと感じる。
そもそも、人に声をかける、というのはポジティブかネガティヴのいずれかの属性を持つものだと思う。敢えて声をかけているのだから、相応の理由があるのだと思う。そこでネガティヴを選ぶ理由とはなんであるか。
その理由は果たして誰のためだろうか。相手のためだろうか?自分のためだろうか?
僕自身、意外と考えてないかなって思ったりした。
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リクリ 投稿者
例えば僕が他人にコメントするのは基本ポジティブにしてる。 ネガティヴを選んだところで、なんの利益にもならないし、揉めてまで相手に何かを説きたいなどと愚かな真似はしない。 ではなぜポジティブな関わりを選ぶのだろうか。 恐らく承認欲求が妥当だろうと思う。共感し、相手に求められる位置にいることで、承認欲求を満たす。 僕ら人間は何かをする時、必ず理由がある。大方は自分の欲のためである。相手に良く思ってもらいたい、相手を屈服させたい…など。 稀に本当に相手を心配し、自己犠牲もいとわない行動もあるが、それすら、助けたいというエゴに過ぎないのである。
みやび
興味深いです。僕の予想ですけど、自分の正しさを他人に押し付けちゃう人たちは、彼らの意識の中では、「ポジティブ」のつもりで声をかけてるんじゃないかな、と思います。本人的にはポジティブのつもりだけど、盛大に勘違いしているタイプ。その考え方を採用することで自分は幸せになれたから、全く違った考えの人が不幸に見えてしまい、助けたくなるという心理。例えるなら「宝石みたいに綺麗な石ころを道端で拾ったから、その幸せを他の人にも教えてあげたい」みたいな、子供のように幼い親切心なのかなと。もちろん、純粋なネガティブタイプも沢山いると思いますけど、「ポジティブだと思い込んでるタイプ」のほうがタチが悪いですね
木金
考えさせられました。 他人と意見が異なることがある。そういうときに自分の意見を正しいと思ってしまうと、他人の意見が誤っていることになってしまう。そうなると、誤った意見を持っている人に正しい意見を教えてあげる、という一見ポジティブな勘違いにもとづく意図と行動が生まれてしまう。でもこれは過ち。ここで度外視されてしまっていることは、自分の意見が間違っている可能性。この可能性を忘れずにいるなら、リクリさんの言うように、この行動は相手の意見を否定して自分の意見を押し付けるというネガティブな意図と行動として観測される。 自分は正しいと思うことの危うさに改めて思い至らされました。ありがとう。