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みんた
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ゆい
失礼だと思いました。
私が悪いのかな?
#質問をしたら誰かが答えてくれるタグ
しずく49
三朝温泉はラジウム温泉なので細胞を活性化する。飲んで良し吸って良し浸かって良しと言われる温泉。
もちろん露天風呂付きのお部屋じゃないと、気管切開、胃ろう造設の身なので。
大荷物での移動🚗³₃
ティッシュも1泊で5箱使用。
もちろん持参。
私も旦那も久しぶりの名湯に入ってゆっくりできました。
今度は秋にどこか連れて行ってあげたいなぁ。それまで元気でいて欲しい。


りむ
#GRAVITY飯テロ部 #激辛 #食べることができる幸せ


そら
抱っこして汗だくなりながら
飼い主さん探し歩いたけど見つからず
結局お巡りさんに保護してもらいました
早く見つかるといいな


ルナ
6月中の梅雨明け発表は
なんと、70年ぶりらしいです😳


Fashion狂

ぷっぷ

JUNJI🥦
こんなサービスあり?🤣🤣


あお🫧
回答数 36>>
だがその定義の多くは、“他者の視点”によって決められているものにすぎない。
では、もし「他者の物差し」から自由になったとき――
私たちは狂気と正気を、どうやって区別すればいいのだろう?
私にとっての狂気は、“静かな極限”だ。
それは叫びではなく、沈黙のかたちをしている。
誰にも理解されることを求めない、孤独の温度。
その存在感はときに、理性よりも真実に近い。
狂気は恐怖ではない。
それは、誰にも明かさなかった“本心”を、ただじっと見つめ続ける姿勢のこと。
むしろ私は、そこに美しさすら感じている。
何かを強く信じているとき、人は狂気に近づく。
とくにそれが、誰にも理解されないとわかっているとき。
それでもなお、自分の内側にしかない「正しさ」を手放せないとき、
私は狂気の端に立っているのかもしれない。
たとえば――
誰にも見せていない努力を、いつまでも続けてしまうとき。
「どうせ伝わらない」と思いながら、それでも言葉を綴ってしまうとき。
誰の声も届かない場所で、それでもまだ言葉を紡ごうとしてしまうとき。
そんなとき、
「私は今、誰の正気にも属していない」と思う。
でも、それは決して恐ろしいことじゃない。
むしろ私は、その場所に居る自分を、どこか誇らしく思っている。
人を傷つける狂気は、狂気ではない。
それは、ただの甘え。
お菓子をねだって、地面に寝転び、じたばたする子どものような、
愚かで稚拙な実力行使にすぎない。
本能のままに感情をぶつけることを、狂気とは呼ばない。
それは理性を超えるどころか、理性を持つことすら拒否した幼児性だ。
私が思う狂気とは、世界の“前提”に対する、根源的な疑いである。
常識に従わないことではなく、
常識そのものを疑い抜いた果てに訪れる、思考の臨界点。
狂気は、誰にも見せない炎。
自分自身に向けて突きつける刃。
逃げ道を断ち、甘さを許さず、
「それで、おまえは本当に、生きたと言えるのか」と問いつづけてくる、内なる静寂。
そして、私の中にある狂気とは――
正気のふりをした、絶望の芸術。
質問者は、私の中の狂気を見たのだろうか。
どんなに目を凝らしても何も見えない漆黒の闇の中で、目をカッと見開いて、何かを見ようとしてる――そんな私の映像が浮かんだかな?(笑)

まりん@
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