投稿
リクリ
*
僕は前者的優しさを持つタイプ。ただ、より冷たく言うなら、ありとあらゆる優しさは打算的、自己都合だと思っている。
仮に優しさから自己犠牲をする人間だとしても、本人がしたいからしていることには変わりはなくて、ひどい言い方をすれば、「身を粉にして尽くす自分に酔っている」場合もあるのかなと。
ここまで言うと優しさは存在しないことになりそうなので付け加えると、僕は受け手がそれを気持ちよく受け取れたなら、優しさで良いとも思っている。
自己都合の偽善も、受け手にとっては善である。
ゆえに「偽善も善である」と僕は考えている。

コメント
話題の投稿をみつける

uber底辺

くりな

くらい
土曜は仕事で日曜はライブ行くから途中までしかできないな

マック
#ナイツラジオショー

どんよ
新浪辞任を受けて
サン鳥井社長の会見かーい

とーこ

七咲ち

りん*
カクテルの名前やばくない??なんかオタクっていいね

𝕾沢

3937mo(み
もっとみる 
関連検索ワード


spade50
似たようなことを考えたことがあったのでとても共感しました。 そのとき思ったのは、自分に優しくない、というのも、「自分の身体や細胞にやさしくない」とも言えて、それは「自分の所有物と思っているものにやさしくない」ともいえて、ひいては「他人には優しいけど家族にはやさしくない」という状況と、似た形になってるともいえるのかなと思いました。 なので、「自分にもやさしくしてあげないと意識しなくても働いてくれてる内蔵や細胞がかわいそう」、と思えば自分にもやさしくする理由ができるのかなと思いました。
たっつー
真の優しさの部分だけにフォーカスすると、それは対価を求めない施しだと思いました。 自分に優しくない人は、優しい人ではなくて、病的に人に尽くさなければいけない強迫観念に囚われるのではないでしょうか。
リクリ 投稿者
補足 僕は、「人は自己都合で優しさを振り撒く生き物」だと思っている。仮に利益にならなくても、自分にとって何がしかのプラスになるから動くのかなと。例えば、誰かを救いたいと言うのも、当人の都合である。 ただ、そうすると無償の愛がなくなるのでは?と言う問いもあった。 なので、その対義である有償の愛(対価が発生する愛)と比較して、無償の愛(対価が発生しない愛)があるのかなとか。
リクリ 投稿者
まって、綺麗に文章切り抜いて画像貼ったから本文と同化してるわ[びっくり] 下の方の文章が、元の投稿ね!