これはその気概を賞賛こそすれ、揶揄するものでなく、その狂気の一端を束の間の娯楽としていたんだと確認するものであるだけのことで、それはそれとして深層組がテセウスの船になったとしても、きっと見続けるんだろうなという自覚でもある。