今日「哲学書はツッコミみたいなものなんじゃないか」と思った。ツッコミは正しいことを言うと思われがちだけど正しいというより「正しさ」的なものが昂りによって一瞬全ての欲求などの頂点にいった状態なんじゃないか。哲学書も同じバイブスで書かれていそうだなと思った。コギトみたいなかんじで、ツッコミも点として生起する。デカルトは存在論にまで手を出すけど、本当にデカルトがいいたかったのはリアルな存在のことではなく、点としての瞬間のリアリティだと思うから、ツッコミもそういうもの。これは極めて理性的だが理性の求める一貫性や整合性すら二次的なものとするし、主体すら二次的なものとする瞬きのようなもの。ツッコミも矛盾を許容する。かまいたちやエバースでツッコミの矛盾がボケに指摘される。ボケはむしろ理性的だ。それはボケが詭弁を受け入れているという点で持続的な運動だから? わからん。 ボケのことは保留
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今日「哲学書はツッコミみたいなものなんじゃないか」と思った。ツッコミは正しいことを言うと思われがちだけど正しいというより「正しさ」的なものが昂りによって一瞬全ての欲求などの頂点にいった状態なんじゃないか。哲学書も同じバイブスで書かれていそうだなと思った。コギトみたいなかんじで、ツッコミも点として生起する。デカルトは存在論にまで手を出すけど、本当にデカルトがいいたかったのはリアルな存在のことではなく、点としての瞬間のリアリティだと思うから、ツッコミもそういうもの。これは極めて理性的だが理性の求める一貫性や整合性すら二次的なものとするし、主体すら二次的なものとする瞬きのようなもの。ツッコミも矛盾を許容する。かまいたちやエバースでツッコミの矛盾がボケに指摘される。ボケはむしろ理性的だ。それはボケが詭弁を受け入れているという点で持続的な運動だから? わからん。 ボケのことは保留
くらはし 投稿者
もしかしたらツッコミもデカルトも衝動なのかもしれない。とかいうと怒られそうだが、そうなのかもそれないと思ったから喋る。コギトは衝動っぽい。ツッコミは理性が衝動という形で噴出したもの。コギトもそう。だとしたら同じだ。 多分そうではない哲学もある気がする。衝動ではない哲学。 おそらく衝動は良いものではないし、安易ですらある。だからみんなが抱えている。本当のことを言いたい気持ちみたいなものを。ただそこで出てくる本当のことにはレースがある。無限後退や無限前進(他者同士のレース)がある。 だからむしろどう衝動を克服するかが大事になってくる。それを考えたのがポストモダンかもしれない。