投稿
しゅう
「市民交流施設」みたいなところに
「環境配慮がテーマのテナント」があって
そこに「ここで教える内容」が
箇条書きされていて
その中で「環境を破壊する方法」と
書かれていた件
「環境の保護・守り方」を教えるのではなく
「環境を破壊する方法」を教えるというのは
斬新と思ったお話
「環境の壊し方」を知ると
恐らく「環境の守り方・重要性」を知る事に
つながるのだと思う
モノにおける
「壊すことで 修理方法を学ぶ」とか
「仕組みを学ぶ」と似ているお話
なるほどと思ったお話
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いしちゃん

春稀︎︎︎(元ぽち)🚬🪦
思い知らされることばっかやし、いつまでも弱いままで変われんかった
愛着障害はきつい
安心も安定もなんもできん
できる環境なっても逆にそれが壊れる不安しかなくて、今までそうやったけん余計よぎってきつくなる
過去は過去とか、大丈夫とか、一緒いるなんてそんなんない
みんな忙しくて、みんな必死なんだもん、どうにもならんやつなんてほっとくが1番
関われば余計迷惑になるだけやし、害役なだけ
だからもういい、世の中の端の荷物みたいなやつは消えるんがいいんやろな

竹光
科学は見える部分を最低限クリアにして、測って再現して誤差を管理して形にする物でなるべく答えを確定に寄せようとする。
哲学は逆に揺れ幅も全体の一部の切り出しが成立する条件も切り出した瞬間に生まれる余白も捨てないから範囲はデカいし地図を書くことじゃなくて地図の成立条件を見る。
例えるなら「悟り」と「仏教」の関係性が当てはまって、悟りっていうのは「辿り着く地点」じゃなくて辿り着こうとした瞬間にズレる対象で、対象化した瞬間に終わる。仏教とは悟りを捉えずに、欲や執着を扱える範囲で調整して悟り“風”の状況の手前を運用すること、つまり確定された悟りへの要素だけを扱っている。これは、「科学=確定できるところで道具化する 哲学=確定できない揺れを含めて枠を扱う」っていうベクトル差と構造が同じ。
哲学と科学はどっちが上か、どっちが優れてるかっていう勝敗で分けるものじゃなくて、どっちも同じ道路を走っていて片方は制限速度を守って地図を書き出してもう片方は道路がどう成立してるのか扱っているだけ。役割もベクトルも違うものにどっちが正しいかなんて議論を持ち込むこと自体烏滸がましく感じる

アクアシティ
🇯🇵高市首相
「来年度一般会計総額は122.3兆円」
「税収は87.3兆円を見込んでいる」
「新規国債発行、29.6兆円」
こいつを支持してるやつまじで頭おかしい
サンダース
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