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吉田賢太郎

吉田賢太郎

時間という名の双子
かつて、私たちの日常には二つの異なる概念が密やかに息づいていた。「多忙」と「余暇」——対極にあるようで、時にその境界は曖昧に霞む。
多くの人は信じていた。自分の意思で選び、自らの手で決めたことは、必ずや自分を多忙の渦へと誘うのだと。それはまるで、自ら課した冒険の書であり、ページをめくるたびに新たな任務が降りかかる。責任という名の重いマントを羽織り、目標という名の灯台を目指して歩む。たしかに、そこに多くの時間と労力が注がれることは、避けられない現実だった。しかし、それでも人は選び続けた。なぜなら、その選択の先にこそ、真の充実があることを知っていたからだ。
一方で、自分の意思とは関係なく与えられた時間や、特に目的もなく過ぎゆく時間は「余暇」と呼ばれるものだと思われていた。それは、日々の労苦から解き放たれた、心地よい無の境地。だが、そこに潜む落とし穴に気づく者は少なかった。義務や強制に縛られた時間は、たとえ体を動かしていなくとも心を蝕み、精神を疲弊させる。それは余暇とは程遠い、見えない「多忙」だったのだ。
見えざる多忙、活動する余暇
しかし、やがて人々は気づき始める。
「何かをしていても、それは余暇であり得る」と。趣味に没頭する時間は、たとえどれほどの集中力を要しようとも、心に喜びと安らぎをもたらす。友との語らい、体を動かす喜び、新しい知識への探求。それらは確かに活動でありながら、魂を癒やし、明日への活力を生み出す、真の余暇だった。
そして、最も衝撃的だったのは、**「何もしていなくとも、多忙である」**という事実だった。ベッドに横たわり、窓の外を眺めているだけの時間。だが、心の中では未完のタスクが、未来への不安が、あるいは過去の後悔が、嵐のように渦巻いている。脳は休むことなく思考を続け、解決策を探し、来るべき瞬間に備える。肉体は静止していても、精神は絶え間なく働き続けているのだ。それは、まさに「見えざる多忙」と呼ぶにふさわしい状態だった。
真実の定義
こうして、人々は新たな真実を手に入れた。
「多忙」と「余暇」を分けるものは、単なる「行動の有無」や「自己決定の有無」ではない。それは、その時間が心に「負荷」をもたらすのか、それとも「解放」や「充実感」をもたらすのか、という内なる感覚によって決定されるのだと。
自己選択は主体性を生み、多くの場合、深いコミットメントに繋がる。しかし、その選択が「休む」ことであれば、それは最高の余暇となる。一方、他者からの強制や、心に重くのしかかる未処理の思考は、たとえ体が動いていなくとも、精神を消耗させる真の多忙となり得るのだ。
時間とは、私たちに与えられた単なる計測単位ではない。それは、私たちがどう感じ、どう生きるかによって、無限にその表情を変える、まさに「時間という名の双子」なのであった。
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