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あお🫧
整っていることだけでも、映えることでもない。
息をのむような静けさや、ふと心がほどける瞬間。
一枚の絵に見とれたり、沈む夕陽に涙がにじむとき。
不完全でも、心を揺らす何か。
それは誰かのためではなく、
自分にとってふるえるもの。
意味を超えて、ただそこに“ある”という存在の力に、
私は理由なく引き寄せられてしまう。
目で見るものだけではなく、内側で感じる気配。
そして、その感じる力もまた、一つの美しさなのかもしれない。
けれど今、“美しさ”は自由に感じにくくなっている
誰かの視線にさらされ、数値で評価され、ランキングされる。
“ふるえ”という感覚は、「正しさ」や「流行」という枠に押し込められてしまう。
たとえばルッキズム。
美しさを“他人の基準”で決める、その仕組み。
自由に感じることではなく、
評価されるために「整える」ことばかりが求められる。
その結果として、無理な食事制限や、身体のリズムが乱れること。
成長期の子どもたちの体が、健やかに伸びようとする力を削がれてしまう。
からだが、こころが、「もっと大切にして」と声をあげても、
鏡の中の自分を嫌いになってしまうことさえある。
うつくしいのに。
本当は、すでにうつくしいはずなのに。
美しさとは、本来、
整いすぎた何かではなく、
その人の内側から、じんわりとにじむもの。
健やかに呼吸をし、食べ、眠り、笑うこと。
自分の“好き”を感じられるこころと、
自分の“からだ”を信じられる感覚。
それは、ゆっくりと、たおやかに咲いていくものだと思う。
わたしは、きれいなものが好き。
そしてなにより、「自分かわいい!」って思える瞬間が、いちばん美しいと思う。
そのとき、私は誰の視線にも頼らず、
自分の中の光を信じている。
美しさは、他人に見せるためのものじゃない。
感じるためのもの。
奪われるものではなく、育てていくもの。
美しさは、自分のなかにあるもの。
わたしはそう思うけれど、
きっと、人の数だけ“美しさ”がある。
あなたにとって美しさとは何ですか?
🧪ふしぎの考察ラボ ~考えるって、たのしい~
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ごまとうふℱ🎸
自分にとって美しさとは、心が動かされるもの。憧れ。であるが、目標にもなる 自分が感動する写真に出会ったら自分も感動するような写真が撮りたいと思う キレイな言葉使いの人がいれば自分も色んな言葉を知ってそんな言葉を自然に言えるようになりたいと思う 美しいと感じたもの全てが目標になる訳はないのだが、自分の行動の源になるものである
yjk☁️
僕は、自分らしくあろうとすること。 その「在り方」に美しさを感じます。 その形はどうだって構わない。 その人が、そうあろうとするのなら 例え、どうしようもないくらいに泥臭くて、側から見れば滑稽だったとしても。 僕は、その人の眼差しの中に、その人から溢れる音に、その人から綴られる言葉に、その人から溢れる余白に美しさを感じます。 つまり、僕にとっての「美しさ」とは余白の共鳴によって感じられるものです。 だから、それは「綺麗」なんていう整った言葉では表現できない。 ただ、感じるものです。 あおさんの綴る言葉達は、美しいですね。 いつもコメントしようか迷って、でも上手く言語化できません...字数w
モ!
美しさとは何か? 価値あるものとは何か? 逆に醜さとは何か? 価値なきものとは何か? やはりここでも美意識を持ってる人と、美意識を借りてる人で変わるのでしょう。 私は長らく借りている側でした。苦しいばかりでした。テレビに映る化粧男子をありがたがり、それに落第な自分を醜いと思い、また人を見るときも批評家のように冷たい眼差しで見つめたものです。 今はしがらみが消え、自分の美意識をわずかに持ち始めました。 絵の具も青、赤、黄しか使わないような私でしたが、茶色、灰色も使うようになり、いわゆる綺麗から一足抜け出せたように思えます。 ですがまだ虫達を見ると戦慄する自分がいます 万物皆美に至りたい
たけぽん
美とは調和。調和とは適応。適応とは環境とのせめぎあいの果ての均衡。そう、せめぎあい、やがて均衡状態に至る。この均衡状態を人は自然と呼ぶのだと。 せめぎあいの中で、様々な技術が使われ、養われていく。目で押されたら、耳で押し返す、耳で押し返されたらてを鍛えて押し返す。 つまり、人は人であるがゆえに技術という牙を持っている。だから、他人を応援するなら「技術を磨け、爪をとげ、牙を立てよ」ってのが、あるべき姿じゃないかしら?と思う。 かのような応援関係も、また自然であり美だと思います。
らかん
コメント欄じゃなくて、投稿で…[笑]