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凡人
"自分探し"という言葉がある。今の自分は不完全で、何かしっくりこない。自信がないし、不安だ。なので、何か天職や、理想の恋人、あるいは努力の結果、本当の自分になれるのではないか?
私も、いつの頃からか、自分探しをしていた。それを得れば、あるいはそれになれれば、絶対的な自信が湧いて来るような何かを探していた。
勉強も、仕事も修行も、そのためにしていた。
さて、2600年前、ブッダはある問題を考えていた。古代インドでは「真我」というのがあると考えられていた。ブッダもそれを見つけようとしていた。ちょうど、21世紀の若者たちが"自分"を探していたように。
本当の自分とは何だろうか?ブッダの教えを手がかりに、自分探しの旅に終止符を打ちたい。
#ひとりごとのようなもの

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煉妖kan

asu🐧
6期イベはりおたんでいきます
矢田ちゃんか心月ちゃんにいきたいとこなんですがボーダーが高そうなのでやめましたw


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凡人 投稿者
さて、話を仏教に戻そう。キリスト教に寄り道したら、ネルケ無方さんを思い出した。ネルケさんはドイツ人で牧師の子供だった。だが、私と同じで聖書の神の残酷さを嫌い、日本で禅僧になった。 ネルケさんがツイッターで道元禅師の「身心脱落」について書いた記事↓を紹介していた。 「佛道をならふといふは、自己をならふ也。 自己をならふといふは、自己を忘るる也。 ......」 というのは、道元禅師の著書『正法眼蔵』にある有名な文章だ。道元禅師は自分探しをしていたわけではない。仏様を探していた。だが、仏様とは自分を習うこと。自分を習うとは自分を忘れることだと、
凡人 投稿者
20年迷った。やっと二年くらい前に仏教決められた。 私にとって、一番難しい問題だった。しかも先々のことを考えると間違えられない。 生涯を捧げるに値するテーマだった。だが、思い出すと苦しい思い出が蘇る。
凡人 投稿者
さて、二十年くらい私は仏教とキリスト教の間で迷った。その結果、仏教を選択した。逆の人もいる。仏教を選択しなかった人も。 私がイエスを信じれなかったのは、神が理不尽極まりないこと、アダムとイブの逸話がフィクションに思えたこと、欲望や怒りが消える方法が掴めなかったこと、などがある。 キリスト教を選ばなかった理由を書くと、自ずと仏教を選択した理由も書ける。 神というパワハラ上司がいなかった、解決すべき重要課題にフィクションが入っていなかった、そして、欲望と怒りが消える方法が明確だったからだ。
凡人 投稿者
仏教の前にキリスト教の救済論をザッと見ていく。 イエスが民衆たちを叱ったポイントは"不信仰"だった。神を信じなさい、神は何でもできる。全幅の信頼を寄せよと。 神が最初の人類アダムとイブを楽園から追放した理由も"不信仰"だった。神に従わず、悪魔の奸計に引っかかり、知恵の木の実を食べた。神は食べるなと命じていた。 私はアダムとイブは失敗作だと思う。神に作られたのに、蛇の誘惑に負けた。これが原罪と呼ばれ人には労働と生みの苦しみと死が与えられた。 それだけではない。死んだら地獄に落ちる。 なので、理不尽極まりないが、アダムとイブの不信仰により、以後キリストが現れるまで人類は地獄に落ち続ける。
凡人 投稿者
道元禅師の教えは、ネルケさんが本やツイッターで詳しく説明しているので、興味があれば検索してみてほしい。 私は、キリスト教を選択しなくてよかった。二年くらい前から教会に行かなくなったが、別に天罰を受けてはいない。キリスト教は聖歌が美しいなど、良い点もたくさんある。 だが、ネルケさんが『迷いは悟りの第一歩』に書いているように、神の残酷さがあるのも事実(画像2)。パワハラ上司とサヨナラできることは、何物にも代えがたい。 そして、ブッダが無我を教えたように、道元禅師は自分を忘れることを教えた。自分とは何かを探していたが、仏教も禅も自分を否定しているように思う。 自分探しというが、その旅の途上において、道元やブッダが言ったことは、私にとって長く理解できないものだった。