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ℍ𝕒𝕝ꕤ
村上春樹さんの「ノルウェイの森」を元旦から4日かけて読了。
年に何回か読み返す。
読み進める間は気持ちがものすごく重くなる。
でも最後に希望があって救われる。
何があっても生きなくてはと思うんだ。
#きっと大丈夫
#祈りの一日
#感謝の気持ち
#深呼吸
#生かされている

ノルウェーの森(ノーウェジアン・ウッド)
コメント
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めありー..
気持ちが完全にではないにしろ明日が来ることへの不安感が和らいだ。
感謝。
でもね、もうお風呂入って薬飲んで寝る準備していくよ。
ゆっくりゆっくりね。自分。

あーわん(U´・ェ・
なぜ気持ちいいのでしょう、
大好きなのです❤️
もふもふ❤️

ハーロック
例えばの話ですが、10回に1回失敗するとします
10回間違えたのは、100回やった証です
5回しか間違えていない人は、50回しか挑戦していないのかもしれない
失敗しないコツは、何もしないことです
何もしなければ、失敗する確率そのものが発生しません
ただ、何もしない人間に成長はありません
同じ場所に留まるか、気づけば後退するだけです
人生はトライ&エラーの連続です
失敗の数だけ、ひとは磨きがかかる
いいですか
失敗を恐れないこと
失敗を引きずらないこと
毎回、反省して改善すること
何もしない卑怯者にならないこと
失敗は成功の糧だと知ること
失敗をしない人間は、ひとりもいません
他人のミスを笑ったところで、自分もまたミスをする、必ずする
失敗を繰り返して成長した人間は
10回に1回の失敗を、100回に1回に変えていける
落ち込んでるヒマなどありません
失敗しても挑戦をやめない人が、信頼を得るのだと僕は思います
今日も、よく踏ん張っていますね
その苦労は、尊いです
#希望


じゅん
まず、私のようなタイプは、パートナーが「辛い」「苦しい」「めんどくさい」等、ネガティブな感情を伝えてくれたとき、それを解決するための具体的な方法を提示しようと努力する。「それは◯◯の制限がある限り厳しいから、例えばこれこれこうしてみたら」のように。
これ自体は誠意が伝りさえすれば「頼りになる」人間なのかもしれないが、全てのコミュニケーションでこの対応をすると、パートナーは追い詰められてしまう可能性が高い。
これには、以下の2つの理由がある。
①言語化できないモヤモヤを見落としてしまう
具体的解決策を提示するモデルでは、当然ながら言語化されていないモヤモヤは解決されない。私のようなタイプは言語化された内容についての解決策を述べるのみとなるため、「それは辛いね」「嫌な気持ちになったね」等の、感情の受け止めを忘れがちになる。これが繰り返されると、パートナーは私に対して、「事務的な相談(具体的解決策のある相談)以外は意味がない」と学習するようになる。
②こうしたネガティブな感情の中には、日常の中の些細な感情も含まれる
①と似ているが、少し異なる。つまり、些細過ぎて解決策を提示してもらう気がない、感情の共有のための伝達である。これに対して日常的に共感及び受け止めをしていないと、いざというときに相談ができなくなる。そもそも解決策の提示を求めていない相談だが、これの積み重ねが肝要である。
私のようなタイプは、これらに対して、「そんなの言ってもらえないと分からないよ」と思ってしまう。ただ、この手の相談に関してはどのケースにおいても、共感をすれば間違いないため、言われなくても最善の行動は同様である。そのため、相手に生まれた感情がその場に確かにあり、それを強く受け止めたという姿勢の提示がどのような相談においても最初に必要であるということだ。もちろん、仕事のケース等では別である。
これをあまり考えなくて良いケースとしては、「ロジハラvsロジハラ」みたいなパートナーのケースがある。双方が同様のコミュニケーションロジックを持っているケースだ。
今回の件はあくまで、コミュニケーションロジックが異なるパートナーにおける最善手である。もちろん双方の歩み寄りが必要なため、感情型のコミュニケーションを行うタイプは、一部の感情を言語化する努力は必須となる。ただし、ロジックタイプのほうが攻撃力が高いため、どちらが先に傾向を修正したほうが良いかというと、間違いなくロジックタイプである。
最後に、本投稿は間違いなくロジハラタイプの私に向けて書いている。これは、多くの場合感情タイプには刺さらないことを意味する。「そんなに間違ってないけど理屈っぽ過ぎるよ」となるかもしれない。ただ、ロジハラタイプも間違いなく人間であり、人生のなかで大切にしてきたものが少し感情タイプと異なるだけである。そのため、ロジハラタイプを感情タイプに無理に変えようとするのは難しい。ロジハラタイプがロジハラタイプのまま、感情タイプと寄り添えるようになることを目指したい。

憧憬
そして、悪を働くことの代償を知って初めて、世の中の善良な人々の尊さをいっそう強く感じる。
私の母は 時々私に言う。「菩薩が人をこの世に生まれさせるのは、祝福なのよ」
でも私は納得できない。もし本当に「祝福」なのなら、なぜ菩薩は人間として生きる機会を与えたのに、ある人たちはちゃんとした人間でいることを放棄して、競うように『畜生』のほうへ進もうとするのだろうか。
私はますます息苦しさを感じるようになった。その息苦しさは周囲の人々との強い落差から来る――周りの人が自分の魂を売ることを気にしないのに、自分だけが自分の魂を気にかけて育てようとする。これはほとんど理屈に合わないことだ。
たくさん本を読み、学歴もかなりあるのに、自分が金持ちでも博学でもあるとは感じられない。最後に残った感覚は、自分がどこか壊れてしまったのではないか、という思いだけだった。
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🤙また

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二度とバスキン・ロビンスについて語るなよ雑魚が

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考えすぎくらいでちょうどいい。
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読書はいいですね 成長しますから
みるん
ノルウェイの森、 私も何回か読み返してる[穏やか]