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としゆき

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関口隆吉
関口隆吉は今から180年ほど前の天保7年(1836年)、江戸(今の東京都)に幕臣の子として生まれました。子どものころは体は小さい方でしたが、頭が良くすばしこくて遊ぶ時はいつも大将となり、高いところに登って指揮号令したといわれています。一方では将来立派な武士になるよう書を読み字を習い、新道無念流の剣法にも励みました。
明治維新により江戸幕府は倒れ多くの武士が職を失いました。その救済策の一つとして牧之原開拓事業があり、父の生家が御前崎市佐倉にあった関係でこの地方に詳しい隆吉が事業の具体策を進言し金谷原開墾方頭取並を命ぜられ、自ら入植の先頭に立ったのです。時に明治3年隆吉35歳でした。
隆吉は現在の菊川市月岡の地に家を持ち、ここで開墾に全力をそそぎましたが、明治政府から請われて政府に出仕することになり、明治4年に単身上京します。明治5年に三潴県(みつま・現福岡県)権参事に任じられたのを皮切りに、山形県参事を務めました。明治9年からは山口県権令に任ぜられ、地租改正事業と旧氏族の反乱(萩の乱)鎮圧に大きな功績を残しました。
明治17年9月には静岡県県令となりました。この任期中に「県令」は廃されて「県知事」となったので、関口隆吉は初代静岡県知事になります。県内のあちこちを視察して歩いた隆吉は、河川の多い静岡県ならではの問題(旱害、洪水、潮害など)を解決することを最も重要ポイントとしてかかげ、河川改修等の治水事業に取り組み始めました。
明治22年、愛知県で行われる招魂祭に参加するために乗った列車が事故に会い、その怪我が元で54歳でなくなりました。私利私欲を捨て、人々のために働くことを一途の道とした隆吉は、幕臣出身ながら明治時代における地方政治家として多くの業績を残しました。
(出典:菊川町50周年記念誌「みのり」)
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