📖 絵本風物語『千年の硯と夜明けの文字』｜アクア−Devilの投稿-GRAVITY(グラビティ) SNS

共感で繋がるSNS

投稿

アクア−Devil

2025/10/26

📖 絵本風物語『千年の硯と夜明けの文字』

むかしむかし、それは、言葉がまだ紙よりも石に深く刻まれていた頃の話。

ある古い寺の片隅に、千年の時を生きた**「硯（すずり）」がありました。その名は、『黒曜（こくよう）』**。

黒曜は、何百人もの学僧や詩人の指先に触れ、その魂が削る墨の音を、ずっと聴いてきました。

墨を磨る「サーッ、サーッ」という音は、黒曜にとって、世界の息づかいであり、人間の持つ喜びや、深い悲しみの詩でした。

千年が経ち、寺は廃れ、黒曜は忘れ去られました。しかし、その石の奥深くには、使われた全ての文字の魂が、**付喪神（つくもがみ）**として宿っていたのです。

黒曜は、もう一度墨を磨ってほしいと、強く願いました。けれど、誰にもその願いは届きません。彼の体は埃にまみれ、窓から差し込む月の光だけが、唯一の話し相手でした。

ある冬の夜。寺の雪深い庭に、一人の少女が立っていました。名を**「コヨミ」**と言いました。

コヨミは、村の誰よりも言葉が好きでした。けれど、彼女は生まれつき声が出せませんでした。

コヨミは、文字で世界とつながる術を知っていました。古い寺に引き寄せられた彼女は、埃をかぶった黒曜を見つけました。

「なんて、深い色……」

コヨミは持っていた清らかな水で、黒曜の表面をそっと拭いました。そして、小さな墨と、折れかけた筆を取り出します。

「サーッ、サーッ」

千年ぶりに響いた墨の音に、黒曜の魂は震えました。それは、力強い詩人の音でもなく、厳かな学僧の音でもない、静かで、澄んだ、祈りのような音でした。

コヨミは、その墨を使い、障子紙に文字を書き始めました。書かれた文字は、

「風のささやきが聞こえますか」

黒曜の付喪神は、その文字が、少女の**「声」**そのものであることを知りました。彼女は、筆を通して、世界に話しかけているのです。

それ以来、コヨミは毎晩寺に通いました。黒曜は、少女の筆に込める感情をすべて受け取り、最高の墨となって、彼女の「声」を形にしました。

ある時、コヨミの村に争いが起こりました。人々は互いを信じられず、怒鳴り合い、言葉を交わすことをやめました。

コヨミは心を痛め、涙を流しながら黒曜に墨を磨りました。その夜、彼女が書いたのは、たった三つの文字でした。

「想い、伝えよう。」

その紙を手に、コヨミは村人たちの前に立ちました。声のない少女が差し出した文字。村人たちは戸惑いながらも、その言葉を読みました。

そこに宿っていたのは、黒曜が千年かけて聴き集めた、言葉の持つ本来の力でした。怒りを鎮める静けさと、心を解きほぐす慈しみ。

人々は、静寂の中で初めて、互いの心に耳を傾けました。争いは、その夜、風のように消えていったのです。

黒曜は悟りました。自分の使命は、偉大な詩を残すことではない。 **「声を持たない者の、真実の声を届けること」**だったと。

そして夜明け前。コヨミが去った後、黒曜の表面は、朝日の光を浴びて、淡い金色に輝きました。

黒曜は、千年の時を超え、ようやくその魂を、**「道具」から「光」**へと変えることができたのです。

静かに、黒曜は小さな石の粒となり、風に溶けました。翌朝、コヨミが訪れたとき、そこに黒曜の姿はありませんでした。

ただ、硯があった場所に、墨で書かれた一文字だけが残っていました。

「感謝」

コヨミは、その文字をそっと抱きしめました。彼女は、もう声が出なくても、文字という新しい翼を手に入れていました。

🌸 おしまい 🌸