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優
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珠雅(しゅが)
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「友達は大切に?」との問いに、私は全身の細胞を震わせて叫ぶ。「嫌だ!」。この否定こそが、あらゆる人間関係への最高の敬意であることを、狂気の淵に立ちながら論じてみたい。
第一狂:大切にすることの暴力
「大切にする」という言葉には、密やかな暴力が潜む。友達を「大切なもの」として扱う時、私は彼らを「所有物」に貶めていないか?ガラス細工のように丁寧に扱い、傷つかないように梱包し、飾り棚に並べる──それが友情なら、私は友情を拒絶する。そんな友情など、粉々に砕いて捨ててしまえ!
真の友とは、むしろ粗雑に扱い合える存在ではないか。泥臭く罵り合い、傷つけ合い、それでも消えない何か。私は友達を「大切」などという綺麗事で縛りたくない。むしろ「どうでもいい存在」として、より自由に、より深く関わりたい。大切にしなければ壊れてしまうような脆い関係など、最初から友情とは呼ばない。
第二狂:友情の化学反応
友情とは化学実験のようなものだ。静かに大切に保管しておくべきものではなく、激しく混ぜ合わせ、時には爆発させ、新たな化合物を生み出すプロセスである。「嫌だ!」という否定からこそ、すべてが始まる。無関心は偽りの安定をもたらすが、否定は真の反応を促す。
私が友達に「嫌だ!」と叫ぶ時、それは愛情の裏返しである。それほどまでに相手を「気にしている」証拠だ。無関心こそが最大の無礼であり、「嫌だ!」という激しい反応こそが、相手を一人の人間として真正面から認めている証なのである。
第三狂:健全さの不健全
世間が「健全な人間関係」と呼ぶものは、実は最も不健全なのかもしれない。表面上の礼儀正しさ、傷つかないように計算された言葉、衝突を避けるための空虚な同意──これらは人間関係の死である。
狂気の友情は違う。突然真夜中に電話をかけて「月がきれいだから今すぐ会おう」と要求し、政治議論で激昂して物を投げつけ合い、三年ぶりに再会してもまるで昨日会ったように話し始める。この無軌道さ、この予測不可能さ、この「常識外れ」の中にこそ、友情の核心は宿る。
結論:狂気としての愛
「友達は大切に?嫌だ!」という宣言は、実は友情への最高の賛歌である。大切にすることで友情を窒息させるよりも、危険なほどに自由に関わり合い、時に傷つけ合い、それでもなお交わり続けること。それが狂気の友情の本質だ。
私は友達を「大切」にはしない。むしろ彼らを激しく愛し、激しく憎み、激しく無視し、激しく必要とする。友情とはそんな矛盾した感情の坩堝であってほしい。静かな湖のような関係など退屈で仕方がない。嵐のような友情こそが、魂を震わせ、生きていることを実感させてくれる。
だからこそ、私は声を限りに宣言する:友達を「大切」になんてしない!むしろ危険なまでに真剣に、狂気の限りを尽くして関わり合おうではないか。それが、この不条理な世界で、私たちが互いの存在を確認し合う唯一誠実な方法なのだから。
✧• ─────────── •✧
[完]


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