体術も球技も登山も根本的には身体操作に興味があるらしくて例えば8000m級を登頂するプロセスに未踏の方法がまだ現代にもあるのだけどそれを知りたいからやってる気がしてきた 武術の求道者がよく言う結局は相手を倒す以上に真理を知るのが目的っていうやつは多分ノックアウトが目的の武に動機の限界がくるということなのだと思う 畑山隆則はボクシングをやるのは自分自身を知りたいからと言ってて共感できる 武道はかなり哲理が発達してるのだがそれを読むと随分合理的な体系が出来てて腹筋を中心とした身体作り、指先の神経、足腰の強化、重心移動、などは現代医学的に(リハビリテーション的に)言えば作業療法や理学療法の理論とも整合的に出来てる そういう身体操作一つ一つの意味、歴史、合理性を調べると何やら人の本体に迫る真の値に漸近する気がしてくるわけで、それはもう対峙した敵を葬るだけではない何かだと思う ただそうは言っても敵を倒すのを目的としなければ武術は舞踊になるので不可分なのだが ただ死亡率の高いK2のしかも少人数編成で難所に挑むのはそれが人類未踏の誰も到達したことのない方法だからだし、そこに何があるのか知りたくて仕方ないからだし、それこそ求道の字にそれは現れてるのかなと思いました という夏休みの日記です
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