ところが、遊離した信仰のうちにいる人がみことばの中で注目するのは、自分たちの教義に確証を与えてくれる箇所だけで、内部にあるものを直視することはしません。仁愛の情愛のうちにいない場合、人は外部的な視野でしか見られず、直視も程度が低くなります。