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からくり
——そのような問いをいただきました。
確かに、自分が“助ける側”であろうとする姿勢には、
一歩間違えば「上から目線」や「自己陶酔」といった要素が含まれてしまいます。
けれども、私はこう思います。
誰かを助けたいと願う気持ちは、人間にとってごく自然なことであり、
本来は否定されるべきものではありません。
重要なのは、自分が持つ情報や経験(いわば“カード”)だけで
相手の状況を決めつけてしまわないことです。
たとえば、誰かが危険な状態に見えたとしても、
その方にはその方なりの「まだ安全と判断しているライン」があるかもしれません。
それを無視して「救わなければ」と動くことは、
結果的に“おせっかい”や“支配”になってしまう可能性があります。
私はこう考えます。
・メサイアコンプレックスと愛の違いとは何か?
それはきっと、以下のような視点にあるのではないでしょうか。
相手にたとえ嫌われたとしても、その言動が最終的に相手の内省や成長に繋がるならば、それは**介入ではなく「敬意ある関与」**です。
むしろ、相手の主体的な学びの機会を奪わないように、「今は行動しない」「あえて手を出さない」という選択を取れるならば、それは見守るという形の愛です。
そして何より、自らの行動に対して“見返り”や“感謝”を求めるのではなく、誠実さを貫くことそのものに意味を見出せるかが問われます。
人は誰しも、好かれたいという思いを持っています。
それ自体は自然なことです。
しかし、「好かれたい」という願望が行動の主目的になってしまった瞬間、
その行為は愛ではなくなってしまいます。
愛とは、
相手の尊厳を信じて、判断を委ねること。
愛とは、
「そうならないように」と自分に問いながら、慎重に行動を選び取っていくこと。
そして何より、
誠実であろうと“願い続ける姿勢”そのものが、愛の実践なのだと私は思っています。
あなたの“助けたい”という気持ちは、誰のためのものでしょうか?
それが“その人の未来”に本当に繋がるものであるならば、
きっとそれは、愛と呼んでよいのだと思います。
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