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空転透過🍀
「出掛けた方がいいと思う」と言った娘の言葉に愛を感じたのは、天気がいいからとか、娘は外で遊ぶのが好きだから外に出掛けた方がいいと思うとか、そういった単純な意味以上のものを感じたからだった。
四月までの一年以上もの間、僕は自分から外出することがほとんどなく、娘はそれを間近で見ていた。
「お父さんが元気な方がいい。好きなことをしてほしい」そういう気持ちがむすめにあったように思う。
自分が人から愛されていると感じたことはあった。
わずかなそれらの人の愛し方こそが愛情なのだと決めつけていた。
自分が嬉しく感じられるような愛され方を求めていた。自分の理解してほしいように自分を理解してくれるような、そんな愛情を。
僕が気付いたのは、彼女が「娘の素直な気持ち」として言葉を返したのだろうということだった。
上に書いたことと矛盾するように見えるだろうけれど、そうではない。
彼女は僕を彼女なりに理解しようとしてくれるし、受け入れてくれている。
しかし、その時の彼女の即答は単純だったかもしれない。状況的に「出掛けた方がいい」と言ったように思ったのだ。そして、それを僕が「愛情」だと感じた、というのが正確だった。
娘は、たぶんまだ愛情とか人の愛し方とかそういったことは考えていない。
彼女は彼女としてそこに居てくれている。
そんな彼女が僕の問いに答えてくれる。
そこに居てくれるということ自体が「愛」で、答えてくれることが「(愛)する」ということではないか、とそう思ったのだ。
そう思った時、元パートナーのことや、今まで自分のそばに居てくれた人、今も周りに居てくれる人のことを当てはめて考えると、みんなただ違った形で僕に答えてくれている、つまり「愛し」てくれていたのではないか、とそう思えた。
ようするに、僕が気付いたことは、
自分が望む形の愛され方など幻想に近い。
人は誰でもその人なりに人を愛するものなのだから、自分の理想的な愛され方を求めるなどお門違いだということ。
そんなお門違いを今の今までしていたのは、愚かだったな、ということ。
そうして、これからは人からかけられる言葉や行為の意味が変わってくるだろうと思った。
これは僕が考えた一つの考えに過ぎないし、間違っているかもしれない。
けれど、現時点では府に落ちたように思う。
いずれにしても「人を愛する」ということは僕の生涯の課題だなのだから、ずっと追い求めていきたい。
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