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もち
以下、最終話までのネタバレです
◯このメモを三つでまとめるならば、
1.宝石たちは常に自己存在に「不満」を抱く。ゆえに変化を望み、役割を求め、力を欲するものの決して満足することはない。その果てにあるのは「自分と他者の死(=無)を願うこと」となる。
望みが絶え間なく変化しその時々で叶えようとするのは、「真に望むもの」の正体を知らないからである。
2.「必要とされたい」「何かを必要とする」というのは、「誰かから愛されたい」という表明である。そのために特別な仕事、特別な関係、特別な力を当てどもなく探し求める。(しかし見つからない)
3.自我(人間性)は、常に「死=無」を求める。目に映る全てはこれに基づいて解釈されるので、幸福や祈りですらも死(無)への捧げ物となり、今では死(無)が救いとなる。“さようなら”。
・宝石の国とは、
自己存在の頼りなさと、それを克服するために”付け加える”すべては無意味であると描く。そしてまったく解決されることのない不満が行き着くのは、自己を含めた「すべてを殺害する」ことであるという自我の力動を映し出したものであった。
という印象を抱いた作品でした。#宝石の国
◯長々としたメモ
(エピソードの説明はあまりなく、要素を並べてる感じです)
・「生きているだけでいい」と思えない宝石達は、「変わりたい」と望む
脆く溶けやすくフォスは何の役割を与えてもらえず、シンシャは夜の見回りという役割を見つけるものの毒の性質ゆえに月人に攫われたい(ここから居なくなりたい)と願い、「強くなければダイヤモンドではない」と言うダイヤは自分より強い同族(ボルツ)が居なくなればいいのにと密やかに望んだ。
みなそれぞれ、自分が自分であることに耐えられなかった。生まれた時に決定される「不変のように見える宝石の性質」に我慢ならない。
・自らの「変化することのない個体性」を受け入れられないのは、「自分はもっと違う存在だ」という自己認識があるからこそである
戦闘に不向きでも戦闘に参加したかったフォス、最強にはなれないけど最強になろうとしたダイヤ、フォスの提案を心待ちにしていたシンシャ
・変わりたいと望むことは、「自分は不完全だ」ということの裏返しである。満足していれば、何かを望むことはない
つづく
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よまき
コワイネーコワイネーの意味は?
コワイネーコワイネーは、主に日本のネット文化やアニメ、マンガの中で使われるフレーズで、特に「怖い」と「ねえ」を組み合わせた言葉です。この表現は、何かが怖いと感じる時に使われることが多く、特に子供やキャラクターが恐怖を表現する際に見られます。
意味:
「コワイ」は「怖い」という意味。
「ネー」は感情を強調するための言葉。
使用例:
アニメやマンガのキャラクターが恐怖を感じた時に「コワイネーコワイネー」と言うことで、その感情を表現します。
このフレーズは、特に可愛らしいキャラクターが使うことで、恐怖感を和らげるようなユーモラスな効果もあります。ネット上では、面白いシーンやミームとしても広まっています。

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ねんねの赤ちゃんならまだしも、お互いの世界があるのに四六時中一緒にいるのは大人同士でもキツいのに、母の愛だけを盾に非難してんの、もしかしてそう思わない依存系の人かな?

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もち 投稿者
・「満足」する石たちは、力を求めなかった。だから遊ぶのである。 ツルツルフォスは石に、視覚といった力を与えようとするが石は拒む。あなたからすれば不完全に見えるかもしれないが、自分はこれで充分なのだと。 プープは言う。用意された「最高の星」の星を通り過ぎて、そこらへんの星に不時着することになるのだと。けれど石たちに“不満”はない。 不時着後、長い年月が経ったある日、フォスは咲いた花を近くで見ようとして、落下する。欠けて、二度欠けた。さらに小さくなったフォス、けれど彼はそれを「損失」だとはみなさなかった。何とも無い様子である
もち 投稿者
・仏教は無へと至る道ではなく、輪廻から解放され涅槃へと至るもの(永遠の生を自覚する道)だと捉えているが、本作では「無=救い」と捉えて仏教的要素を導入しているように見受けられる。
もち 投稿者
・ある石は、フォスの砕けた欠片を物語る。 「新しい宇宙を見に行った きっと大きなきれいな彗星になっている」 それを聞いたフォス。「だれかの気分をあかるくしてるといいな」 本作ではこれがもう一つの祈りとして定義されているのだと思う。無としての死としての祈りではなく、「だれかの気分をあかるく」できますようにという祈り。 (ちなみに本作で語れる祈りはつねに“他者性”がある。けれどそれは祈りのレベルにおいてそれは下段であると認識する)
もち 投稿者
・「最善の利益」がフォスには分からない。その場その場で“いい”と思われる判断し、その時その時の“望むもの”を手に入れても、いつも最後には不満だけが残った。 望むものが絶え間なく変化する中に「最善」なんてものはない。 ・フォスは真の望みを知ろうとしなかった。自分の望みの正体を知ろうとはしなかったからこそ、それ以外の望みをいくら叶えても満たされることはなかったのである。 ・「誰からも愛されたかった」とは、自分には愛が欠けており、愛を持っていないという声明である。そして“自分には無い”からこそ、持っている他者から得ようとするのである。
もち 投稿者
・フォス「あそぼ!」 不満がなく、自分が自分であることに満足しているとき、ただただ楽しいし嬉しい。そしてその喜びは自ずと拡がってゆく。延長してゆく。それが「あぞび」であり、満足した心の状態から続いていく行動なのだと思う。 ニンゲン性(ego)がないフォスは満足しているように見える。 真の喜びは、「真の自己の意志」を行うこと捉えられる。 おわり。