教職に就いていたKの父は徴兵を逃れていたが、とうとうルソン行きが決まった。敗戦直前であって、前線は瞬く間に崩れ落ち、山谷を逃げまわり、飢渇のなか仲間の死肉を頬張り、本土に生還したときには、既に彼は死んだことにされていた。母は半きちがいになって帰郷した息子を見て、泣きに泣いたが一年半ほど経ったころには、肉体はかつての精悍さを取り戻し、眼差しもはっきりしてきた。ただし、戦地で起こった出来事については一切口にしなかった。ある時から、Kは時折はっきりしない譫言を父が繰り返すのを聞いた。それは晩酌のときだった──刺し身は立つように切らねばならん。Kにはなんのことだか分からなかった。刺し身とは横臥わった魚の肉だ。それを立たせるには、うんと太く肉を切らなければならない。Kはなにがなんだか分からないまま、皿のうえに盛られた刺し身を見ていた。Kが分別ざかりに北京の工場の工場長として働いていたころ、彼の父は亡くなった。そして戦争については、やはり一言も語らなかった。
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教職に就いていたKの父は徴兵を逃れていたが、とうとうルソン行きが決まった。敗戦直前であって、前線は瞬く間に崩れ落ち、山谷を逃げまわり、飢渇のなか仲間の死肉を頬張り、本土に生還したときには、既に彼は死んだことにされていた。母は半きちがいになって帰郷した息子を見て、泣きに泣いたが一年半ほど経ったころには、肉体はかつての精悍さを取り戻し、眼差しもはっきりしてきた。ただし、戦地で起こった出来事については一切口にしなかった。ある時から、Kは時折はっきりしない譫言を父が繰り返すのを聞いた。それは晩酌のときだった──刺し身は立つように切らねばならん。Kにはなんのことだか分からなかった。刺し身とは横臥わった魚の肉だ。それを立たせるには、うんと太く肉を切らなければならない。Kはなにがなんだか分からないまま、皿のうえに盛られた刺し身を見ていた。Kが分別ざかりに北京の工場の工場長として働いていたころ、彼の父は亡くなった。そして戦争については、やはり一言も語らなかった。
m. h. k. 投稿者
あまりに憂鬱だったで、きづいたらなんか書いてる