『風の匂い、武蔵村山で』｜黒縁メガネの投稿-GRAVITY(グラビティ) SNS

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黒縁メガネ

2025/10/29

『風の匂い、武蔵村山で』

土曜の午後、イオンモールの駐車場に車を停めたとき、
フロントガラス越しに見えた空は、秋の色をしていた。
少し乾いた風が吹いていて、どこか懐かしい。

「この町、変わらないな……」
俊介は小さくつぶやいた。

高校を卒業してすぐ離れた武蔵村山。
いまは所沢で家族と暮らしている。
妻と中学生の息子。
何も不満はない。――そう思っていた。

だが、SNSの「おすすめ」に偶然流れてきたひとつの投稿が、
静かな日常を揺らした。

《かたくりの湯の風、今も変わらない》
そこに写っていたのは、笑顔の女性。
名前を見た瞬間、息が止まった。
――「結衣」。高校時代、同じクラスで、淡い恋をしていた人。

メッセージを送るつもりはなかった。
けれど、気づけば指が動いていた。

「久しぶり。元気そうだね」

そして今日、彼女と会う約束をしてしまった。

⸻

結衣は、変わっていなかった。
少し落ち着いた雰囲気と、控えめな笑い方だけが、年月を感じさせた。

「ほんとに来てくれるなんて思わなかった」
「俺も、ただ懐かしくて……」

二人はモールのカフェでコーヒーを飲み、
そのあと、昔よく歩いた廃線跡の遊歩道へ向かった。

夕方の風が木々を揺らす。
結衣の髪がふわりと肩に流れ、その香りが俊介の胸を締めつけた。

「俊介くん、結婚してるんでしょ？」
「ああ。君も？」
「うん。もう十年」

沈黙が降りた。
互いに、触れてはいけない境界を感じている。
それでも、心のどこかで――その境界線を越えたがっていた。

「ねえ、覚えてる？　高校の文化祭の帰りに言ってくれた言葉」
「……“好きだった”って、あれ？」
「そう。それ、ちゃんと聞こえてたよ」

結衣は笑いながら、少し目を伏せた。
その笑顔が、あまりにも優しくて、残酷だった。

「もしあのとき付き合ってたら、今とは違ったのかな」
「……違ってたかもな」

風が止まった。
どちらからともなく、距離が近づく。
声も、呼吸も、聞こえるほどに。

けれど次の瞬間、結衣が小さく笑って言った。
「ダメだよ。今のままでいいの」

俊介は何も言えなかった。
ただ、その言葉が胸の奥に深く刺さった。

夕陽が沈み、オレンジ色の光が二人を包む。
やがて別れ際、結衣が振り返らずに言った。
「またこの風の季節に、会えたらいいね」

俊介は何も返せず、ただ立ち尽くした。
遠くでかすかに金木犀の香りがした。

その香りは、十七歳の秋のままだった。