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yjk☁️
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一つは、「社会的定義による才能」。
これは人が生まれ持った能力が、育った環境や出会い、努力などの媒介を経て社会において発揮、もしくはその可能性を示すに至った状態の呼称。
つまりは、「成果としての結果」。
二つは、「本質的定義による才能」。
他者視点の認知の有無を介さずに、社会の構造上で評価され得る能力を持っているという事実。また、未来において評価され得る新たな構造を創りあげる媒介となるもの。
つまりは、「未来への期待値(ただし他者評価の有無を問わない潜在的事実)」。
たとえば、大谷翔平は現在は前者だが幼少期は後者だった。また、ピカソなども死後は前者だが生きていた頃は後者だった。
また、才能を有する者の中でも、新たな構造の創出や既存の塗り替えを果たした者のことを「天才」と呼ぶのだと思う。
ただの才能であれ、天才であれ、いずれも有限な時間の中で相対的に努力だけでは到達できない境地へと至る可能性を持つ点は共通している。
ちなみに、私は二つめの本質的定義を推している。
才能には様々な形が存在し、それはまだ知覚できる形で顕在化されていない場合も多くあると思うからだ。
そして、顕在化までのプロセスにおいて、環境的要因により潰される才能もあるだろう。例えば、ある個人が身近な人からは特別な評価をされていても、適切な時期に良き指導者に巡り会わず、結果としては社会的な成果を伴わずして終わる場合もある。
だが、人が己の可能性を信じ続ける限り、自身の才能に気付く機会が失われることはないと考える。
前述したが、才能の形が一つでないのなら、顕在化のプロセスと結果も一つではないはずだから。
それに、もしかしたら自分で気付いていないだけで、誰かがコッソリと教えてくれてていたりすることもあるかもしれない。
そう、コッソリと……
私は才能にはグラデーションが存在していると考えている。
世間からの特別な評価もなく、自分でも大したものじゃないと思っていても、誰かがあなたから影響を受けて「自分も詩を書いてみようかな」なんて思ったこともあったかもしれない。
才能とは、その人の存在そのもに宿る光だと思う。
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こるく

凛々@ば

𝙨𝙖

えゐ(

7か8

ポケま

しーー
ついに無惨様がっっっ
いらっしゃる!!!!!!!

カラス
漣さんも負けないようにね(?)

凛々@ば

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すいません、間違えました。 ピカソ→ゴッホです。
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とても同感!!