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甲斐性無しの甲斐の人
武田氏10代当主で甲斐守護の武田信満は上杉禅秀の乱に際して、義理の兄弟である禅秀に加担し敗死した。
すると甲斐国内では逸見氏や跡部氏といった国人が勢力を増していった。
また、日一揆と輪宝一揆というふたつの武士団の対立も同時に起きていた。
その結果、信満の長男信重は高野山で雌伏し、次男信長は日一揆と組んで武田氏再興を目指し、逸見氏と跡部氏は輪宝一揆と結んで信長に対抗するという状況になった。
その頃に日一揆によって築かれたとされる城で、武士団の名にちなんで日ノ出城と呼ばれたそう。
武田信長と日一揆の連合軍は荒川原の戦いで大敗して日一揆は壊滅、信長は甲斐から落ち延びた。
城はその後放棄されたようだが、天正壬午の乱では徳川勢が修築したそうだ。
中央自動車道の工事に伴って遺構は破壊されたようで、これといって確認できなかったが、石碑と解説板や縄張りの想像図があった。
解説板は文字が焼けてしまってほとんど読めなくなってしまっていた。
石碑によれば空堀があるらしいが、わからなかった。
#一日一城




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