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甲斐性無しの甲斐の人
武田三名城や関東三名城といわれる城のひとつ。
甲陽軍鑑に関東三名城と書かれていることが由来らしい。
築城時期は不明だが、南北朝時代に吾妻行盛という人物が治めていて、南朝方の里見氏に攻められて落とされ、子の斉藤憲行が北朝方の上杉氏から支援を受けて奪回したそうだ。
戦国時代になると武田信玄が真田幸隆に上州侵攻を命じて攻撃、吾妻行盛から6代目の城主斉藤憲広を破って真田家が制圧した。
それ以降は真田家の城として発展し、長篠の戦い後に昌幸が真田家の家督を継ぐと、武田家の崩壊時には勝頼を岩櫃城に迎え入れようとしたが叶わなかった。
関ヶ原の戦いの時には昌幸の従兄弟の矢沢頼康が城代になり、東軍についた信之方の城になったという。
城の立地は岩櫃山の中腹にあたる部分になる。
岩山である岩櫃山を背負うように城が築かれており、いわゆる後堅固の城だった。
遺構の状態は良好で、本丸周辺は堀や切岸を使って立体的に防御機構がつくられていた。
東の木戸のほうは見逃してしまったが、西の木戸の目の前には出浦氏の屋敷跡や大きな堀と橋台跡があって広大な城域を守るための工夫も見られた。
そしてこの城を見て回っていた私は本丸がまだ、岩櫃山の四合目だという事実に気づいたのだった...
続きはコメント欄にて。
#一日一城









コメント
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千多

桜んぼ
自分より年上のええ歳したオッサンでも、こんなに政治に無関心な人いるんや…選挙行ってるだけマシか、、、?

さとし

メテン

チキン-
とりあえず帰ったら刀使ノ巫女11話を見るか…

ykino@ゆ
交換できるかもだけど、送り返してまた受け取ってってめちゃくちゃ手間なんだよお互いに…

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ひろし
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甲斐性無しの甲斐の人 投稿者
せっかくだからと私は頂上を目指すことにした。 五合目のあたりには天然地形かもしれないが、堀切のようにも見える箇所もあったし、その頃はまだ城跡を歩いているという感覚があった。 しかし登り続けていくにつれ、修験道の山としての側面が強くなっていき、頂上付近は鎖場に次ぐ鎖場の連続だった。 というか、鎖がつけられる前はどうやって登ったんだと言いたくなる山だった。 頂上から観る景色は絶景で、上田から沼田へと続く真田道や吾妻峡を眺めることができて良い経験になった。 しかし、私は二度とこの山を頂上まで登ることは無いだろう。 頂上から鎖を伝って下山するのが、ビビりの私にはおそろしすぎた。 頂上の近くには鷹の巣遺跡という弥生時代の遺跡もあるそうだが、すっかり心を打ち砕かれた私は観るのも忘れて下山した。
しえる
甲斐さんの写真で満足いたしましたのよ[ほっとする]𐤔𐤔 よく無事に降りてこれたよね[泣き笑い] 熊、怪物、鎖 次は何がくるんだろ[泣き笑い]