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甲斐性無しの甲斐の人
南部光行が南部郷を得て南部氏を名乗り、館を構えた頃に築かれたと思われる山城
やはり古い年代の城跡なので、防御機構はそれほど発達していないと思われ、曲輪は多く規模も大きく、土塁もいくらか残ってはいるものの全体的に不明瞭だった
また南部氏の家伝によると南部光行が奥州藤原氏討伐であげた戦功の報酬に奥州に所領を与えられて奥州入りしたのが1191年なので、頼朝が鎌倉入りした1180年から考えてもわずかこの城がフル活用されたのは10年ほどということになる
それにしては南部郷の人口規模と比べて大きい山城だと感じるし、実際に南部の家伝は秀吉に所領を安堵してもらう際につくられた捏造であるという説もあるようだ
あととにかく藪だった、ものすごく藪だった
かつては公園だったこともあるようで、枝打ちの説明看板もあったが、朽ち果てていた
#一日一城








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