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ミチフミ龍之介

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龍馬暗殺伝 .6

⑦ 一会桑(いちかいそう)勢力説
 そもそも一会桑勢力とは、何処を指すのか?幕末の政治動向の中心地京都において、徳川慶喜(禁裏御守衛総督・一橋徳川家当主)、松平容保(京都守護職・会津藩主)、松平定敬(京都所司代・桑名藩主)の三者により構成された体制のことである。
 一会桑政権は二度の長州征討を主導したが、1866年(慶応2)8月、会津・桑名両藩の意向に関わらず慶喜が第二次征長を中止し、徳川宗家相続を機に諸侯会議を重視する姿勢を打ち出したことにより、その意義を否定される。慶喜の変節に反発した二条が9月に一時参朝を停止し、10月には松平容保が京都守護職の辞職を申請するなど、ここに一会桑政権の実質的な崩壊が明らかとなった…と、wikipediaにはある。
 重要なのは、この後で結局将軍になった慶喜は孤立してしまい、龍馬暗殺に動いたのは会桑勢力である。
 以下の説は2018年平成30年3月1日発行の作家で歴史研究家の桐野作人著『龍馬暗殺』からの引用である。
 元々、会桑勢力は将軍慶喜が二条城で政権返上の意向を表明直後に、禁裏御所に繰り込み参内する慶喜を警固する名目で、先手を打ち大政奉還の上奏を骨抜きにして仕舞おうと云う策略があった。これは廷臣たちをそうして恫喝して朝廷からの大政再委任と言うシナリオを会津藩公用方の小野権之丞が、大政奉還発表の日の朝に慶喜に直接申し入れしたのだが、慶喜はそれを許さず夜になってから改めて、会津藩を叱責したことで事態は治る。
 この会桑勢力VS反幕勢力の構図を語るには、そもそもの武力討幕派VS公儀政体派と言う対立軸そのものの見直しが必要であると言う。
 こうした史観は、過去のものであるとも言う。戦後歴史学では大政奉還と武力討幕を対立的に捉える考え方が長く主流だったが、1970年代以降、数々の歴史学者などから批判が続出し、新たに「廃幕派」「保幕派」と言う対立構図を発信されてきた。そこで、大政奉還建白をキッカケに、慶喜の政権返上から王政復古へと進む道筋を承認するのか否かの分岐点が鮮明に現れた事が確認出来たので、敢えて上記の新たな派閥抗争とした方が説明し易いことに考え方が変容したのである。この定義で、会桑勢力の龍馬暗殺論を解説してゆくが、紙面の都合から次回に譲ることにする。
フレームは幕末の慶喜公。
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コメント

👿はにゃ👿

👿はにゃ👿

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坂本龍馬暗殺されてまわりはどう変化したの??時代というか

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ミチフミ龍之介
ミチフミ龍之介
龍馬の海援隊は怪しかった勢力の暗殺犯容疑者を襲いましたね。 明治新政府は容疑者として元見回り組の今井信郎を捕縛しましたが、重罪には処しませんでした。理由は謎なんです。 時代は龍馬の構想した通りに大方沿って築かれたし、慶喜公も権限は奪われましたが最低限の土地や財産は残されて伯爵となりました。
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